11

 容赦なく頬をぶん殴られ、僕は成す術もなく吹っ飛んだ。リノリウムを全身に感じる。口内の血の味を感じたのはその後だった。

「お前がいながら……」

 僕を殴ったヒュージは、歯茎から血が出るんじゃないかというほど歯を噛み締めていた。

「お前がいながら! なぜナキを死なせた!」

 怒号。耳に刺さる。

 命からがら基地に帰ってきて、一発目がこれである。全身の疲労がうんざりするほど蓄積しているが、それで同情を誘ったところで止まってくれる相手ではないことは分かっている。

 体格の良いヒュージに思いっきり攻撃され、僕は盛大に咳き込んだ。血の痰を吐き飛ばし、ヨロリと立ち上がる。

 胸ぐらを掴まれる。

「ナキは……ここで死んで良い男じゃなかった! 心根が良く、業もあり、この国に必要な人間だった!」

 ヒュージの熱い息がかかる。僕は抵抗する気にもならず、シャツが伸びるのに任せた。

「別に「ここで死んで良い男」なんで誰もいないだろ。僕は今お前に殺されかけてるけど、僕は死んで良いのか?」

「貴様……ッ」

 僕はまた一撃を食らい、今度は壁際まですっ飛ばされた。背中を壁に打って肺が潰れる。

 ヒュージがにじり寄ってくる。こいつも戦場にいたはずなのに、このバイタリティはなんなのか。僕は生物学的に興味を持った。

 ヒュージは怒りに歪んだ顔で涙を流していた。

 僕は呆れた。呆れ果てた。

 僕が泣きたくないとでも思っているのだろうか。こいつは。

「お前がもう少し慎重なら! ナキは死なずにすんだ! あれはこんな戦場で死ぬべき男ではなかったッ!」

 ヒュージは隕石のような拳を握りしめる。避ける気力がなく、僕は壁に張り付いたままその拳がスローになるのを眺めた。

 鼻先にヒュージの中指の骨が迫る。

 しかし、

「やめろ、ヒュージ・ハック」

 その拳打が僕の鼻骨を砕くことはなかった。

 オニキスの細い指が、ヒュージの岩みたいな拳を抑え込んでいた。

「オニキス———!」

「やめろ、ヒュージ。ユウイチを殴って何になる」

 どこからか現れたオニキスの冷えた目に、ヒュージは冷水を浴びせられたように静になる。一歩、また一歩と後ずさった。僕は背の壁に体重を預けた。

「ヒュージ。お前は国益のために動く男だ。ここでユウイチを殴って、それでナキは戻ってくるのか?」

 オニキスは僕とヒュージを交互に見ながら言う。蛍光灯の明かりを余すことなく吸い込む黒髪は、闇夜の中にいたら気づかないほどだろう。

「ユウイチは生きている。兵士だ。そんな彼をいたぶって、勝てる戦いにも勝てなくなるぞ」

 オニキスはヒュージに詰め寄る。

「それは国益か? ヒュージ」

「………………」

 ヒュージは煮え湯を飲むように顔を顰め、それから固く目を閉じると、何も言わずに踵を返して廊下の向こうに去っていった。

 場には傷を作った僕と、全身真っ黒なオニキスだけが残された。

 ヒュージの発散する熱が未だ廊下に残っているような気がした。

「気にするな……と言うのも難しい話だろうな」

 オニキスが黒く呟く。

「別に難しくなんてないさ。日常茶飯事だ」

 オニキスは腕を組んで廊下の向こうを見やる。

「ヒュージも混乱しているんだろう。百九十八の同胞のうち二十三が死んだのだからな」

「百九十八人、全員と知り合いだってのか? あいつは」

「そうだ」

 オニキスは冗談の気が一片も含まれていない両目で僕を見る。

 まさに二つのオニキスに見つめられてるようだ。

「ヒュージほど軍に篤い男はいない……にしては若すぎるがな、あいつは」

「特海鮮定食」

 オニキスはにこりともしない。

「傷病者診断は済んだのか?」

「ボディもメンタルも特に問題なかった。今傷が増えたばかりだけどね」

 顔面に二発。まったく容赦がない。

「傷絆は足りているか?」

「心配ご無用。かすり傷だ」

 そう思わないとやってられなかった。

 その後僕はナキの遺品を整理した。遺品整理は生前親交のあった者や寮の部屋が近い者が行うこととなっており、僕はオザワと共にナキの部屋を掃除した。女からの手紙が多かった。

 ナキは棚の奥底に、新品のビリヤード・セットを隠し持っていた。黒一色でない、様々な色が用いられた本来のビリヤード玉である。

 荷物はナキの故郷に送った。

「受け取り手がいるかは微妙なところだな」

 中身の詰まったダンボールを庶務に提出した後、オザワが呟いた。

「……きっと届くさ」

 僕は自然、そう言ってしまった。ほとんど社交辞令のような、様式美のような、エミュレイトのような言葉だったが、オザワま真面目に受け取ったようである。

「ユーイチ、お前メンタルチェックは受けたか?」

 しかしその受け取り方は堅物に過ぎる。

「受けた。問題なしだった」


 僕は自室に少ない荷物を置いてから、熱いシャワーを浴びた。洗体中に頭痛がして、思わず吐いてしまいそうになるほど、僕の身体は参っていた。しかしやるべきことはある。僕は全身に鞭打って着替え、遊技場へ行ってビリヤード台の予約を消し、それからフェルテがいる作業場に顔を出した。

 広い作業場には大勢が集っており、喧騒が場内を満たしていた。床に広がったブラックシートには所狭しと銃器が並べられ、床に放置されているようなものもあった。

 戦場から戻ってきた銃器や備品を修理するのに整備班は大忙しのようだったが、それでもフェルテは作業の手を止めて僕を出迎えてくれた。最近見ないほど笑っていた。

 ゆっくりしたかったが、悠長に長話をできるような状況ではなかった。それほど作業場には火が点いていたし、僕の心臓の火はもう消えかけていた。僕はフェルテと一発ハグを決め、手を振って作業場を後にした。

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