10
「うん……そう……そういうこと。エーゼのワインは腐ってた」
僕はブリーフィングが終わってすぐに勝手口に駆け込み、電話を掛けた。
外は暗く、コンクリートの上に立っていると自分が何処にいるかさえ分からなくなってしまいそうだった。
「そんなに心配しないでよ。大丈夫だよ、多分、いや絶対ね。君は安心して仕事をしていて良い。あぁ場所? えーっと……そう、ラモーネの
僕は基地の柵の向こうの、街灯の少ない街並みを眺める。冬の夜の風が頬を裂くようだった。
この遥か向こうの大地では、土を焼き焦がすような激熱が蔓延っているのだろう。そう思うと不思議だ。薄情なくらいに空気が澄んでいるのだ。
「そういうわけだから、もし僕が死んだら……もしもだって、もしそうなったら、ラヴィネのブローチはレッセルの左肘に隠してある。うまく見つけてくれ。番号は僕の誕生日をパターンSに掛ければ良い」
背後の基地の向こうから猛烈なエンジン音が響いてくる。装甲車の出発だ。既に先発隊が乗り込んでいるはずである。僕は健闘を祈った。
この国はどうなっても構わないが、人死には少ないに越したことはない。
「またパスタを食べに行くよ。それじゃ」
僕は携帯を切った。白い息を吐く。
「……パスタは本業じゃないか」
普通に会いに行くと言えば良かった。頭を掻いて、基地に戻ろうとする。
勝手口の向こうに、人影があった。僕は立ち止まる。
「……立ち聞き?」
「戦争に行くってのに、彼女より先に連絡する相手がいるのね」
隊服を着たフェルテが立っていた。
「お母さんだよ」
僕は滑らかに嘘を吐いた。母の顔など覚えてすらない。
フェルテは溜め息にしては浅い息を吐いた。よく見れば髪が纏まっておらず、枝毛が何本も跳ねていた。隊服のボタンも掛け違えている。
僕はフェルテに近寄り、乱れた髪を左手で梳く。
「大丈夫だって、僕は死なないよ」
「………………」
「いざとなったら」
僕は右腕て力こぶを作るポーズをする。機械の右手は微塵も変形しないが。
「いざとなったらこの、右腕に仕込んだ小型爆弾で敵もろとも———げはッ」
フェルテの肘が鳩尾に入り、僕は呻く。
「……冗談でも言わないで、そんなこと」
「ぐ、痛い……」
フェルテは未だ不安の色をした目をしていたが、僕に実力を行使したことで少しは気が紛れたようである。いつもの強気で荒んだ笑みに戻り、ニヤリと笑う。
「私は選ばれなかった。武器の整備しかできないわ。生きて帰ってきなさいよね」
「了解」
君を守るために戦ってくるよ、なんて気障な台詞は言えない。
*
戦地の臭いは何度経験しても慣れないものだ。
「ユーイチこっちだ!」
声に導かれ、身を放りだして土壁の中に飛び込む。刹那、背後で鋭い爆発が響いた。背中を炙られる。
当然、ダイブする僕を受け止める余力のある者などいない。僕は顔から泥の中に突っ込んだ。
「ッ! 不味い」
「美味い泥があるか!」
ナキが手榴弾を投擲して敵を牽制している。僕は急いで体勢を立て直し、銃を構えた。
ダメージで照準がブレる。いくら精巧に整備しようと、戦場では物資の摩耗がとても激しい。僕は銃を乱射した。かなりの数の弾が虚空に消えたが、一発が敵の兵士の頭に当たった。青い迷彩服が赤黒い色に染まったのが見える。
我が軍は東部第九戦線に約二百人の兵を投入した。大規模な地上戦である。敵は半数もいない。上はこの戦線をどうあっても死守したいらしい。
あちこちから響いてくる炸裂音。
鬨の声。
銃声。
悲鳴。
嗚咽。
笑い。
空は曇り。今朝方は晴れていた。粉塵と爆炎が天の色すら変えたのだ。その鈍重な鉛色の中を、小さい太陽みたいなミサイルが飛んでゆく。敵陣に着弾したそれは、たっぷり振った炭酸飲料みたいに命の泡を散らす。
僕は泥と血と汗と怨念でめちゃくちゃになった前髪を上げる。目を開けなければ敵は撃てない。
煙の刺激で鼻はとうに死んだ。泥が詰まっていたって構いやしない。
「———死ねッ」
撃つ。
敵が仰け反って、間抜けな人形みたいに踊って倒れる。
「やるじゃないか!」
ナキがリロードしながら叫ぶ。彼にしてはハイになっている。命の場所だからだ。
「まぁね」
僕は再度銃を構える。
「訓練は実戦のように。実戦は訓練のように」と言うのは馬鹿共だ。戦地に立って訓練のように立ち振る舞える奴なんてこの世にいない。戦場では全ての要素がパフォーマンスの低下に資するのだ。
音。臭い。感情。命。
実戦で出せる実力なんてものは、訓練の10%だ。だから訓練では1000%の力を目指す。何も万全でない、全てが敵の地獄で、生き延びるにはそうするしかない。
(——————)
ハイペースで命が散ってゆく戦場で、僕の脳は現実と乖離する。
(フェルテ———)
君を奪ったのも、こんな炎だったのだろう。
そのはずだ。僕を奪ったのもこんな炎だった。
必死に逃げた。なぜ殺されるのか分からなかった。体制も情勢もイデオロギーも関係なく、ただ生きるという、最も重視されるべき根源のために走った。全身を火傷しても走った。親と離れても走った。右腕を失っても走った。
僕は記憶を失わなかった。
フェルテは記憶を失った。
それだけの違い。
花畑。
(……花畑だ……)
「おいユーイチ! 聞こえてるか!」
眼前に咲き乱れる、白く淡い花。
(……フェルテ)
僕はその花に手を伸ばす。
しかし僕の右手は、仲間から捻りあげられた。
「ユーイチ! もう敵はいない!」
言われ、僕はハッとした。
首を上げれば、背を伸ばして土壁から身を乗り出しているナキの姿があった。
「やったな。青の連中はほぼ全滅だ」
「ナキ」
僕は壁から顔を出す。花畑は消えていた。代わりにあるのはめちゃくちゃに踏み荒らされた泥と、死屍累々の阿鼻叫喚。僕は連射機構の振動と火花に焼かれた目を何度か瞬かせる。
「終わったか」
「あぁ、俺達の勝利だ」
ナキは銃にこびり着いた泥を袖で拭う。
粉塵が風に洗われ、少しずつ空気がクリアになってゆく。東の空には隠れていた太陽が顔を出し、光は酸鼻たる大地を照らしていた。
「時期に信号弾が上がるはずだ」
ナキは銃を下ろしつつ、黒光りするヘルメットを外した。黒髪が舞う。
「お疲れ、ナキ」
「これで、少しでも終戦に近づけば良いけどな……」
ナキが呟く。僕は地平線を眺めるナキに並んで立とうとし———
すんでのところで、身を屈めた。
ナキの肩を引っ張って。
しかし、間に合わなかった。
タン、と、銃声。
「残党だ! まだ青がいるぞ!」
誰かが叫んだ。
その警告はナキには届かなかっただろう。
「———ナキ!」
遅すぎた。
掴んだ肩の振動から、撃たれたと分かる。
黒髪から漏れる、ガソリンみたいな粘度の赤い液体。
僕は力なく地面に臥すナキに呼びかけた。
「ナキ! 大丈夫か! ナキ!」
心臓を動かそうとする。等間隔。焦って狂った僕は右手の下に左手を重ねていた。鋼鉄の義手に叩き潰されて左手の甲から血が漏れる。
しかしそんな痛みはどうでも良かった。
「ナキ! 生きろ! 生きて帰るぞ! ナキ!」
ドクドクと血は止まらない。
それは耐えられようもなく毒毒だった。
再度周囲に響き渡る銃声を、膜が張られたような耳を通して認識する。
「帰ってこい! このビリヤード馬鹿!」
戦禍が己の首を絞める。自責と後悔と怒りが、どうしようもなく喉を焼く。
来週の台の予約はキャンセルにしておかないとな、と、脳の何処かが冷静に訴えていた。
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