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「給仕さん、特海鮮定食っていくらかしら」

『九六九六当貨でス』

「高すぎ……B定で良いわ」

 フェルテはIB−982からトレイを受け取った。

 僕とフェルテは揃って卓に着いた。食堂にはぽつぽつと人が訪れ始め、レーンの奥の調理ロボたちが忙しなく稼働している。IB−982も客の対応に追われていた。

「笑っちゃうわよね。重油汚染風評被害対策応援のための定食が、うちの給料じゃ食べられないほど高いんだから」

「確かにね……これじゃ「回復不可能です」って吹聴してるようなもんだ」

 僕はサンドイッチを口に運びながら頷く。

「まったく、この国はどこに行くのかしら。軍人ながら不安になってくるわよ」

「そうだね」

 フェルテの言に少しヒヤリとしながら、僕は同意する。チーズの味が消えた。

 フェルテは僕の動揺にまるで気づいていないようで、何の疑念も無さそうに黒いサラダを摘んでいる。

 この国の行末。誰にとっても懸案事項であるはずだ。

 終わらない戦争、不安定な政治、真っ黒な食事。それに加えて最近は国境間際での戦闘が多くなっている。新聞や雑誌では我が軍は快進撃を続けていると書かれているが、あれを信じている国民など三割もいないだろう。

 僕の仲間は、意外と多い。無論ナキやヒュージといった同僚ではなく、テフォンを通じて繋がっているネットワークのことだ。それだけ多くの者が、狂ったこの国を変えようとしているということである。

 僕が直接会うのは彼女一人だが、彼女を介して伝わってくる情報の量は膨大だ。顔も知らない同士は、国内に数十人はいるだろうというのが僕の試算した資産だ。

 黒パンのサンドイッチを胃に押し込み、僕はフェルテの濃い深緑色の髪を眺める。

 僕は事を成さなければならない。緑の光が、僕の心をどうしようもなく焦らせる。

 彼女は戦禍により運命を狂わされた。

 基地で再会したときは、本当に夢かと思った。また会えた。生きていてくれて良かった。僕を覚えているだろうか。そんな思いが胸中を奔った。

 そしてそんな期待は、すぐに砕かれた。

 彼女の荒んだ眼差しと、左腕に生えた樹脂製の義手を見て。

 その瞬間にあぁ、僕は、あの頃の可憐な彼女は死んだのだと悟った。

「そうだよな……こんなの間違ってる」

「?」

 口に出てしまっていたのか、フェルテが顔を上げる。僕はなんでもないように笑みを作った。

「特海鮮定食は高すぎるよなぁって」

「……そうね」

 あれからカウンターの方に聴覚を傾けているが、誰も件の定食を頼んだものはいないようだった。

 僕は正さなければならないのだ。

 この真っ黒に狂った国を。

 彼女が微笑んで、ハローと僕に呼びかけてくれたあの草原を、何としてでも取り戻さなければならないのだ。

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした」

 たとえ彼女に既に記憶がなくなっていたとしても。

 僕らは揃って食堂を出た。レーンには行列。大繁盛だ。この基地に食堂は一つしかない。人体と一緒だ。

「よっし、午後の業務も頑張ろうか」

「じゃあねユーイチ、また」

「うん、また」



「俺はこの国の政治とか体制に文句を言う気はない。概ね満足しているからな。ただ、どうしても直して欲しい点が一つだけある。それは———」

 ナキは呼吸を止め、片目を閉じて狙いを定める。

 緊張と解放。キューが黒い玉を刺突する。黒玉は黒玉に当たり、その黒玉がまた黒玉を弾き飛ばし、最終的に一つの黒玉が黒いラシャのポケットに吸い込まれていった。

 ナキは台の下に転がり出てきた玉を取り、掲げてみせる。

「ビリヤードの玉くらい、カラフルであってほしいんだ」

「確かに、数字が書いてあるとはいえ、ぱっと見で分かりづらいからな」

 僕らの国のビリヤードの玉はすべて黒い。玉を区別するために数字がプリントされてはいるが、その数字も灰色で描かれているので見づらいことこの上ない。

 単色化政策の下では国色以外の色が消える。どの国でも同じことである。黒い国では当然、黒色以外の色がない。

 特海鮮定食が不人気により廃止になってから四日ほどが経った日。僕はナキとビリヤードをしていた。一日の終わりの休憩時間ということで、僕らは台を予約したのだった。

「特海鮮、誰も食べてなかったな。ユーイチは食べたかい?」

「いや?」

「誰が食べたんだろうな」

「ヒュージは毎日食べてたみたいだ」

「ははっ、あいつは真面目だ……よっ」

 またガコンガコンと玉が転がる。

「ああいうのが前線に立てば兵の士気も高いんだろうな」

 僕は頷いてキューを持つ。

 その時だった。

 僕も、ナキも、遊戯場内にいた全員が天井を見上げる。

 警報だった。

 スピーカーから流れる、ジャラジャラと不快な爆音。天井裏に鉄の鱗をもった大蛇が蠢いているような、鉛の貝殻が波にかき混ぜられているような、聞く者の肌を逆撫でする不気味で醜悪なサイレン。

 僕はキューを置き、駆け出した。

 廊下に出れば、部屋部屋から職員が走り出てきているところだった。遊戯場から、食堂から、寮の部屋から、どこまでも人間が出てくる。

 皆は口々に叫びながら、一直線に走り続ける。

「とうとう来たな、この時が」

 背後を走るナキが言う。喧騒に紛れ、僕にしか聞こえていなかっただろう。

 それだけの熱気。

「そうだね」

「俺らも動員かな」

 僕は皆が殺到する先を睨みながら答える。

「かもな」

 サイレンが鳴ってから数分もしないうちに、ほとんどの職員が大講堂に集まった。黒い制服が犇めき、堂内が真っ黒に染まる。

 壇上の、バッヂを着ているような有り様の上官がマイクを点ける。

「諸君、戦線開闢の報が届いた。我が基地は急ぎ隊を組み、国土を脅かす他色部隊を撃滅せねばならない」

 上官は胸元から黒い紙を取り出し、カサカサとそれを広げる。

「火が着いたのは東部第九。番号99830から99990の同士は、直ちに現地に急行し、大地を黒く染めよ」

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