7
携帯を起動すると複数の連絡が溜まっていた。机上のラジオをかけながら、一件一件確認する。内容はどれも些末なものだった。いくつかの下らない連絡は返信しないでおこう。
フェルテとデートするので、携帯は部屋に置きっぱなしにしておいた。折角の休日に連絡してきてほしくはなかったのである。
フェルテとの写真はデジカメで撮った。時間があるときに現像しておこうと、頭にメモする。
外出中に電車の時間を調べられないのは困るので、僕はメモ帳に時刻表を写しておいたのだった。僕達が乗りそうな電車の時間を、余裕を持って前後三本ほどずつメモしていた。駅のホームで眠い目を擦りながらメモ帳を睨む僕はさぞアナログだっただろう。
それに僕は一度、テフォンに電話番号を教えているのだ。
我ながら迂闊だったと思う。テフォンを疑っているのではない。しかし、単に人前で彼女から連絡があるかもしれないというリスクを抱えることになって、僕の生活は大いに制限されることになった。
彼女ほどの人が不用意に電話をかけてくるとは思えないが、電話というものは大抵、一番掛かってきてほしくないときにこそ掛かってくるものである。
そして電話が来るとフェルテは露骨に機嫌が悪くなる。
「さて」
僕は知らないバラードを流すラジオを消し、携帯に充電器を刺し、部屋を後にした。
マグマみたいに熱いシャワーを浴びる。
*
「……それで」
テフォンは煙草の煙を吐いて、若干の呆れを含んだ視線で僕を見た。
「その足でここまで来たというわけね」
「我ながら、よく頑張ったと思うよ」
国境警邏からフェルテとのデートを経て、僕はそのままアザミハマにやってきていた。月は既に天頂を越えており、あと少しで日が昇る。徹夜の覚悟をするような時間はとうに過ぎていた。
テフォンは暗い部屋に溶け込むような黒いシルクのドレスを纏い、その上にさらに煙を着ている。黒く艷やかな髪は夜を裂く燕のようである。ドレスは胸元が大胆に開いたデザインだが、腹部を固く守る構造をしていた。
僕は一人掛けの上等なソファに沈み込み、痛む目を閉じる。
「……その、申し訳ないのだけれど」
テフォンが声を落として言う。僕は片目を開けた。
「調査は難航しているの。先週受け取ったデータは確かに情報部に渡したわ。でも……」
テフォンは言い淀む。僕は続きを請け負った。
「大した情報は出てきていない、と」
テフォンは腕を組んだ。彼女がその身を振る度に、脳を縊るような香りがする。
「正しくは、かなり有効な情報が大量に出てきたわ。連邦二席との会合があった。新型の開発研究班と思しき学者集団とも接触している……あとは、そうね……三十一人目の隠し子が見つかったわ」
「四捨五入すれば同じことだ」
「……価格にすれば、数千万当貨は下らないわけだけど……」
「僕らが求めている情報ではない、というわけだね」
彼女はベッドに腰掛けた。黒いシーツの輪郭が、微かな星明かりを捉える。
「ブラックの失脚を狙うには、この程度では足りない。すべてもみ消されるわ……」
テフォンは呟く。僕も同意見だった。
僕らは一つの共通目的のために集まった。
国家第三席・ブラックの失脚。
黒色国域戦争を強力に推し進めるこの化物を仕留めるには、国内からの追求では足りない。世界を巻き込んだ大規模な攻撃が必要となる。
「やはり、”転化”の情報は必要だね」
世界中で行われている、単色人の”生産”。ブラックはそれに飽き足らず、国外から捕獲してきた黒色以外の単色人を改造し、新たな黒色人を生み出す非道を行っていた。
ただでさえ人体に激烈な損害を与える単色人化操作。それを二度も、しかもより強固に行うとなれば、単色人の命は圧倒的に削られる。
研究所配置、ブラックのスケジュール、廃棄された単腺遺伝子片。状況証拠から、ブラックがこの実験に手を染めていると推測するのは簡単だ。
しかし、決定的な証拠がない。
世界に訴える、決定的な証拠が。
「黒色転化実験。これさえ掴められれば、というところね」
テフォンの手前口には出さないが、それは僕達が集って最初に打ち立てた目標だ。
前進は遅々。
「………………」
しかし、停滞はしていない。
そう思わないと、戦い続けられない。
「……ユーイチ」
テフォンが暗闇の中から僕の名を呼ぶ。
「何?」
一拍、いや二拍以上遅れた返事。
「今日は、その……やめておきましょう?」
「どうしてさ」
テフォンは煙草を灰皿に消し、代わりに胸元から小さな壺のような陶器を取り出した。
「お客様の前でこんなことを言うのは失礼なのだけれど……あなた、酷く疲れているわ」
「そりゃあ、まぁ、人生で一番疲れてるけど今は」
テフォンはライターで壺の中身に火を点ける。柔らかい香りが立ち込める。
「お店は何も、そのためだけに存在しているわけではないわ。柔らかいベッドと、心に良い御香があるの」
「それは良いね。おまけに、君の子守唄もあるんだろう?」
テフォンは壺をベッドの脇の小棚に置いた。
正直、テフォンが座るベッドは耐え難い誘惑を放っていた。あの繊維の中に沈んで、彼女の囁きとともに眠りに落ちるのなら、僕は二度と目覚められなくても良いくらいだ。
僕はソファから立ち上がってテフォンの下へ近づき、そのままキスをした。
「ゆっくり眠るのは、すべてが終わってからにしようかな」
言いながら、良い気分になる。
僕は珍しく笑ってしまった。自分の口元を押さえるなんて久々のことだった。どう考えても限界近くまで疲労しているのに。
「僕はそのためにここに来たんだぜ? 極上の料理が並んだ食卓で、水だけ飲んで帰るようなマネはできないよ」
テフォンベッドから立ち上がる。片手でライターを弄んでいた。
「ユーイチ」
「何だい? 言っておくけど、僕はかなり元気だ———」
テフォンは細い指で僕の胸を突く。
「他の女の子に会ってきたのよね」
「——————」
僕は自信満々の阿呆面のまま固まっていただろう。
テフォンは黒い唇で笑う。
「私は良いけど、その娘はなんて言うかしらね」
「気づきはしないよ」
「ふふ、そうかしら」
言いつつもテフォンは僕のジャケットのファスナーを下ろす。
「じゃあどうして、私は気づいたのかしら」
「君がその道のプロだからじゃないのか」
「女の子っていうのは誰でも、ライス・ケーキを焼くのが上手よ」
確かに、その気配はある。
あの性格に激昂されたら、堪ったものではない。
僕は二重に覚悟を決めて、甘い香りを吸い込んだ。
「そりゃ良い。明日の夕食は豪勢になりそうだ」
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