6

 僕は街外れにある公園のベンチに、フェルテと並んで腰掛けていた。

「………………」

「………………」

 互いに無言。

 今日は休日。僕らは約束通り、週末デートに繰り出してきたのだった。

 哨戒作戦は

 カゲヤマから電車に揺られること三十分。サンサイドという駅で降りた。行き先はフェルテの提案で決まり、僕にとっては初めて降りる駅だった。

 てっきり太陽に近い街を指しているのかと思ったが、今日は曇天だった。

(サンサ・イド、ねぇ……)

 僕らは始発から五つ後の電車に乗り、初回から二回目の映画を見て、昼前に星三,五のカフェに寄った。フェルテは終始穏やかだったし、僕も完全な休暇は久々だったのでそれなりに楽しかった。映画はまぁまぁだったが、フェルテには刺さったようだった。

 そして今、あまり訪れることのない街を散策し、適当に見かけた公園に寄ったのだった。

 冬の大気に冷やされたベンチはなかなか冷たかったが、歩いて体温を蓄えられたので大丈夫。僕らは並んで座った。

「………………」

 悪くない日だったが、座るとどっと疲れが出る。

 今日僕に任命されていた哨戒作戦は、なんとか別人に押し付けることができた。

 失礼だがオザワあたりは休日に何の予定も入れていないだろうと踏んだのだ。そしたら案の定だった。

 火曜に頼んだ時点でオザワは不機嫌そうだったが、彼の金曜に入っている国境警邏と交換しようと提案したら案外すんなりと飲んでくれた。哨戒も警邏も、武装はするが命がけの任務というわけでもない。僕は早朝の哨戒と引き換えに終日の警邏を請け負ったので、オザワは単純計算で二一時間もの自由時間を得たことになる。その時間の重みが彼の溜飲を下げたのだろう。

 僕は金曜日をまるまる使って国境付近を三万歩も歩いた。もちろん重たい武装をして、冗談の面白くない同僚と一緒に、だ。明け一時くらいに帰寮し、嘘みたいに深い眠りに堕ちた。そして八時に起きて、マグマみたいなシャワーを浴び、ヒゲを剃って、昨日の余りの行動食を胃に詰め込んで、植物にかけたら枯れるんじゃないかってくらい濃いコーヒーを飲んで、なんとかフェルテの前に笑顔で立つことができたのだった。

 公園は広くはないが、そんなスペースであっても子供たちは熱心に遊んでいた。グローブを着けた数名がキャッチボールに興じている。数個の黒い球が不規則に空間に跳梁しており、数学の難題のようだった。

 僕らがそんな様を眺めていると、不意に一つのボールがベンチに向かって転がってきた。

「あ……すみません」

 フェルテの足元に転がってきたボールを追いかけてきた子供が、おずおずと近寄ってくる。まだ五、六歳くらいだろうか。

 フェルテは右手でボールを拾った。

「………………」

 フェルテは泥と苔が付いたボールをつまらなさそうに眺めると、左腕に持ち替え、そのままボールを天高く放った。

 義手から射出されたボールはミサイルみたいな速度で打ち上がり、雲の間に消える。

「………………」

 ボールを取りに来た子供は唖然として空を見上げていたが、やがて俯いてトボトボと子供たちの輪の中に戻っていった。

「フェルテ」

「何?」

 緑髪は六月のような光沢だ。

「最後に笑ったのはいつ?」

「……昨日の夜の、コント番組」

「あれは西部第一の戦線開闢の臨時ニュースで潰れただろう」

 フェルテは軽くため息を吐いて、肘置きに寄りかかった。彼女の左肘は樹脂製。肘置きが少し硬質な音を鳴らした。

「映画の余韻に浸ってたのよ」

「それは良かった」

 先の子供は他の組に混ぜてもらったようで、四人くらいでキャッチボールをしていた。

「フェルテは、さ」

「何?」

「自分が子供の頃のことって覚えてる?」

 子供たちを見て珍しく情緒的になったとでも思われただろうか。フェルテは一瞬怪訝そうな表情で僕を見た。

 それから左腕に頬杖を突いて、記憶の棚を撫でるように息を吐いた。

「覚えてないわ」

「……そう」

 彼女の棚には、ここ数年の記録しか収まっていない。

 薄々感づいていることではあった。彼女は侵略された故郷の話や、いつから義手を装着しているのかといった過去の話をまったくしない。誰と話しているときでも、どこでどんなときでも、彼女の背後は空白だ。少し会話をしてみるだけで、彼女のその異常に気づく事ができるだろう。

 そしてそれは嫌な記憶を封印しているというよりは、本当に記憶が欠落しているという風だった。

 分からないでもない。

 あの花のような少女が、純真な少女が、あの数年後には戦禍に飲み込まれるのだ。

 あの頃の彼女はもう、僕の記憶の中にしかいない。

「ユーイチは?」

 フェルテが問うてくる。

「僕?」

「ユーイチは、自分が子供の頃のこと、覚えてるの?」

 もちろん、覚えている。

「もちろん、覚えてない」

「そ」

 僕は白い息を吐いた。どんなに国中の財貨と災禍を黒く染めても、冬に吐く息が白いことは変わらない。テフォンだってそうなのだ。

 最初に世界を黒く染め上げようと言い出したのは誰なのか。

 誰がその尻拭いをするのか。

 そんな疑問を人生で初めて抱いた頃には、僕の右腕は無くなっていたし、たぶんフェルテの記憶もそこを起点に崩壊しているのだろう。

 基地で再会したとき、僕は言葉という言葉を失った。

 記憶の彼女はその面影を残したまま大人になっていた。その左腕を過去の灰として、大人になっていた。花の甘さを忘れた大人になっていた。

 瞬間僕は、あの草原での記憶に固く封をした。決して漏らしてはならない、禁忌とした。それが今の彼女に与える影響があまりに未知数だったからだ。

「フェルテ」

「何よ」

 僕は膝の前で手を組んで言う。

「僕のこと、好き?」

「好き」

 たぶんそれは、僕らが似ているから。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 戦災孤児。欠けた片腕。終わりのない戦禍の下、かろうじて息をしている。

 過去を捨て、捨てられ、黒い食べ物だけを食べて身体を構成している。

 きっとフェルテが僕を好いてくれているのは、その共通項を拠り所としているからだと、僕はずっと思っていた。

 僕は右手の機工を握りしめる。もう彼女の手のひらの柔らかさを感じることはない。

「……ハロー、ねぇ」

 僕は呟く。

 フェルテは頬杖を突いたまま、ちらりと僕の方を見た。

「それ、基地で言ったら殺されるわよ」

「分かってるよ」


 その後僕らは寮に帰り、彼女の部屋でセックスをした。

 植物を枯らすコーヒーの約束をして、僕は部屋を後にしたのだった。

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