4

 心を梳くような青い風が通った。ただそれだけで、あぁこれは夢なんだと確信する。

 子供の身体に戻った自分を確認するまでもない。

 僕は一面に広がる草原に寝転んで、どこまでも澄み渡る青空を見上げていた。

 視界を遮るものはなにもなく、どこまでも草原が広がっている。流れる雲は御伽噺のように白く、子供であっても出来すぎだと思うほどだろう。

 僕は鼻から草木の香りを吸い込んで、しばし空を眺めていた。

 こうしていれば、そのうち彼女がやってくるはずだ。

 夢の中にしか存在しない、彼女が……。

 ザフ、ザフ、と。草原を踏む足音が聞こえてくる。

 僕は寝たまま、雲の数を数える。

 人影が、僕の顔を覗き込んできた。

「ハロー」

 緑髪を揺らして、彼女は言う。

「……ハロー」

 僕は同じ言葉で返事をした。

「あなた、誰?」

「ユウイチ」

 記憶の中の自分の声が気持ち悪いほど高く、僕はもう喋りたくなくなった。

 僕の不機嫌とは対象的に彼女は花のように笑い、僕のとなりに腰を下ろした。

 右隣に腰を下ろした。

「どうしてこんな場所にいるの?」

「君こそ」

「あなた、どこから来たの? 学校の子じゃないでしょう?」

「………………」

 話せば長い。彼女に説明したところで理解は得られないだろう。

 それに、もう自分の声を聞きたくない。

「あの雲から落ちてきたんだよ」

「あなた、雲の子なの!?」

 そうだよ。

 鼻の奥に微かな違和感を捉え、僕は立ち上がった。彼女は不思議そうな顔をして僕に続く。

「どうしたの?」

「………………」

 僕は彼女の肩越しの草原が、黒煙を上げて燃えているのを見た。

 僕が少し険しい顔をしているのを疑問に思ったのか、彼女も振り向いて背後を見る。

 黒い煙はたちまち怪物のように立体的になり、舞い散る火の粉はとうとう僕の睫毛に乗るほどになった。どこまでも続く草原は今や、どこまでも続く地獄だ。

 彼女は炎の中を指さした。

「いい香りがすると思わない? あっちにお花畑があるの。白い花がいっぱい咲いててキレイなんだよ」

 スカートの裾が燃えている。

「いこう?」

 彼女は僕の右手を取る。

 彼女は左手で僕の右手を取る。

 左手で右手を取る。

 僕は動かなかった。業火の中から彼女はこちらを見つめてくる。不思議そうな目をしていた。彼女のしっとりと白い手のひらが、僕の幻肢をこれ以上なく破壊する。

「いかないの?」

「君……」

 甲高い、気持ちの悪い声。

「名前は?」

 彼女はきょとんとした後、ふふっと笑った。

「ヴェルデ」

 世界を包み込む炎の中に、僕は白い花びらの欠片が散るのを見た。



 目覚まし代わりのラジオを止め、僕は布団から這い出た。砂漠から生還したかのように喉が乾いていた。

「ヴェ———」

 ルデ。

 夢の残滓が僕にそう呟かせようとする。しかし水分の絶えた喉からは言葉の形を成した音は出てこなかった。

 体力は人並みにあるが、連続となると流石に堪える。眠い目を擦りながら廊下を歩いた。

 黒い洗顔料で顔面をしごく。清掃員の黒子に挨拶をして、僕はナキの部屋へ向かった。

「ターブラー、ユーイチ」

 扉をノックするとナキはすぐに出てきた。既に制服に着替えている。

「やぁ、ナキ」

「何か用か?」

「昨日の夜、僕と君はビリヤードをしたということにしてくれないか」

 ナキは少し視線を右上に上げたが、すぐに得心したようだ。僕を見て笑った。

「君も大変だな」

「あぁ、とても大変だ」

「貸し二な」

 ナキは指を二本立てる。僕には思い当たる節がなかった。

「貸し二? 一の間違いじゃないか?」

「俺の誘いを断ってまで女を優先したことが一つ。俺と台を囲んだことにするというので二つだ」

 僕は遊ばせていた左手でパジャマの裾を払った。

「なぜ女だと?」

 ナキは何でもなさそうに答える。

「朝から人前でロボットを口説くようなお前が今更気にすることなんて、本物の女以外に考えられるか?」

 朝から頭も口も回る奴である。よほど早起きしたようだ。

「今週末、出かける予定がある。菓子折りでも買ってきてやるよ」

「菓子より、チョークが欲しいな。あと数ゲームで切れそうだ」

 僕は頷いた。

「貸しのもう一つは?」

「俺とビリヤードをしよう」

「………………」

 僕は頷いた。ナキも爽やかに笑う。

 このビリヤード馬鹿。



「やぁアイヴィ、今日も美しい」

『ターン・ブラック』

 既に後ろから舌打ちが聞こえてくるが、実力行使されるまではセーフだ。僕は給仕ロボのIB-982に朝の挨拶をした。

「今日の天気は?」

『本日は午前が晴れ、午後は晴れと予報されていまス。降水確率は午前・午後ともに0%。風は無風でス』

「オッケー」

 僕はIB-982が差し出してきたトレイを受け取る。受け取るついでに顔を寄せ、IB-982にしか聞こえないように囁く。

「僕の名前は?」

『………………』

 僕は顔を離し、IB-982の肩を叩いた。

「正解」

 IB-982は既に僕の後ろの客の料理を盛り始めていた。それを横目に僕は席を探す。昨日の細工は上々と言えた。

 空いてる席に適当に腰掛ける。

 食堂内をざっと見回してみても、フェルテの姿が見えなかった。昨夜は遅かったので、未だに眠っているのかもしれない。好都合だ。

 僕は胸ポケットから黒革の手帳を取り出して予定を書き込む。先ほどナキに言われた、チョークを買ってこいというものだ。あとはビリヤードの予定も入れておかなければならない。無理を言っているのはこちら側なのだ。僕が台の予約をするべきだろう。

 木曜の夜に予定を入れたいところだ。

 僕は手帳を閉じ、フォークを持った。今朝の朝食は黒パン、ブラックリーフと黒豆のサラダ、なんかよく分からないけど真っ黒に焼かれた肉。無造作にフォークを突き刺して口に運ぶ。

 この国で暮らしていて良いことなど、コーヒーがうまいことくらいだ。もっとも、それを頼りにこの国に帰化する者も多いと聞くが。

 食堂は加速度的に混んでゆく。給仕に追われるIB-982を眺めながら、僕は朝食を平らげた。

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