3

 近接戦闘訓練用ゴムナイフに血痕があることに、訓練が終わってから気がついた。

 僕は今日の組手の相手を思い出しながら、一人ひとりの部屋を訪ねて怪我をしていないかを確認した。記憶を辿って十人目のオザワが、首元に赤い疵を持っていた。

 オザワは確認が遅いとか、痛かったとか、血のついたナイフで他の者を攻撃すると感染症のリスクがあるとか、とにかく細々としたことを僕に注意した。けっこう怒っていた。当然だ。訓練とはいえ首元をナイフでぶん殴られ、その相手からの謝罪も遅かったのだから。

 首に傷絆のあるオザワは怒りながらも、僕にナイフの消毒用のシートを何枚もくれた。そこまで面倒を見てもらうのは申し訳ないと一度は断ったが、何としてでも僕にナイフの手入れをしてほしかったらしい。

 消毒シートくらい僕も用意していたのだが。オザワは几帳面なのだ。

 そんなわけで僕は、十一人目の部屋にも赴くことになった。オザワの提案で、十一人目以降の者は血のついたナイフで訓練を受けたことになるので、気分が悪くなっている者がいないか確認したほうが良いとのことだった。

 僕は今日の訓練で十一人を相手にしたので、確認するべきはあと一人である。

「ユーイチ、今夜ビリヤードでもしないか」

 最後に部屋を訪れたナキは開口一番にそう言った。

「血の汚れはないか」

「なんだ? そういう悪口か?」

「そうじゃない」

 僕がナイフの件を説明しても、ナキはまったく興味を示さない。

「それで、ビリヤードはどうなんだ。今ならまだ今夜の台を予約できる」

 ナキはよほど球撞きをしたいようだが、生憎僕にも予定というものがある。ポケットの中のメモが軋んだような音を立てる錯覚をした。

「悪いね。さっきオザワに会ったばっかりなんだ。手玉を見ていると顔を思い出してしまって、集中できないと思う」

 ナキの表情からして冗談が伝わっていないことが分かる。僕はゴムナイフをペタペタと振って別れの挨拶とした。



 二一時四五分。

 僕は暗い食堂へ足を踏み入れた。

 常の活気が嘘のように、夜の食堂は静まり返っている。大人数を収容するために広く作られている食堂だが、人がいることを前提にしたデザインほど、無人の際の物悲しさが強調されるというものだ。

 僕は料理のないレーンに沿って歩き、カウンターの向こうに手を伸ばす。

 電源の落とされたIB-982が俯きながら立っていた。

 僕は彼女の首元の電源ボタンを押す。IB-982がまぶたを上げた。黒い瞳は、明かりの落とされた食堂内ではよく見えない。排気音と油圧計の針の動く音がIB-982の起床を伝えていた。

『———ターン・ブラック。現在時刻は二一時四六分でス』

「やぁ、アイヴィ、起こしてすまないね」

『朝食が未設定です。朝食タブから参照レシピを選択してくださイ』

「少し時間に余裕がなくてね。手を出してくれないか」

『朝食が未設定です。朝食タブから参照レシピを選択してくださイ』

 IB-982にはいちおうのAIが搭載されているが、それが本当に粗末な作りの代物であるということは日々の会話から十分すぎるほど分かる。僕はカウンターに身を乗り出し、同じ台詞を繰り返す大女優の手を取った。

 右手でIB-982の左腕を掴み、握手するような姿勢になる。

 僕はそのまま左手で自分の右腕の二の腕あたりのボタンを押した。

 バシリ、と電流が走る。IB-982はショックで一時停止し、徹夜明けのエンジニアのようにまぶたを痙攣させた。

『——————』

「痛かったかい? ごめんね、アイヴィ。起きてくれ」

 僕はIB-982の電源ボタンをもう一度押す。また排気が始まった。

『———ターン・ブラック。現在時刻は二一時四八分でス』

「こんばんは、アイヴィ、僕が分かるかい?」

 IB-982は僕を見た。暗闇の中の瞳は黒いが、少し緑がかった光が宿っていた。

 深緑色というやつだ。

 IB-982は首もかしげずに思考を巡らせているようだった。

『隊員番号99942番』

「正解だ。でも、それだと味気がない」

 僕はカウンターに肘をかけ、IB-982に顔を寄せる。

「僕のことは名前で呼んでほしいな」

『———隊員番号99942番、ユウイチ・サクロファ』

「そう。ユウイチで良いよ」

 IB-982は微動だにしない。ガラスの瞳が僕の虹彩を認証し続けるばかりだ。

「もう一つ、僕のことを名前で呼ぶのは、僕と二人きりのときだけにするという約束をしてほしいんだ」

『隊員番号99942番、ユウイチ・サクロファ』

「例えば朝食のときとかは、隊員番号で———いや、そもそも人前では僕個人を特定するような呼称は使わないほうが良いな。人前では普通に接してくれ」

『隊員番号99942番、ユウイチ・サクロファ』

「……分かったなら「はい」と言ってほしいかも」

『隊員番号99942番、ユウイチ・サクロファ』

 ………………

 なにか設定を間違えただろうか。

 やはり電流でショックを与えるのは良くなかったかもしれない。僕はIB-982の電源を落とし、再度目覚めさせた。



 フェルテはセックスの後にすぐ明かりを点ける。

「風情」

 僕は蛍光灯の明かりが眩しく、ベッドの上で仰向けの姿勢から横向きになった。

「結び目が作れないんだよね、暗いと」

 フェルトは枕に腰を下ろし、出来損ないの水風船の口を苦心して結んでいる。僕は液体が泡立つそれを、顰め面で見ていたと思う。

 フェルトは人間体の右手と、樹脂製の左手でそれの口を結ぶと、弄ぶように親指と薬指で摘んだ。

 義手だって、そんな用務のために組まれたものじゃないだろう。

「君は昔はそんな娘じゃなかったんだけどなぁ」

「私もう子供じゃないから」

「そんな「娘」って言ったんだよ」

 フェルテは水風船を指だけで振り回す。生物らしい臭いがするが、それよりも圧倒的にゴム臭い。なんだってこんなゴムまで黒いのか。

「それ、やめて」

 僕は鼻に皺を作って言う。

「昨日アザミハマに行った割には、よく出るじゃん」

 僕がゆっくりと起き上がるとシーツに皺ができた。

「友達に会いに行ったんだよ」

「私にそんな嘘が通用すると思ってるの?」

 僕は黙る。嘘が通用すると思っているからだ。現にフェルテは、僕の本性にはほとんど気づいていないだろう。

 しかし嘘を吐き通せるとここで自信満々に言えば、フェルテの機嫌が奈落になってしまうことが火を見るよりも明らかだ。僕は黙る他ないのだ。

 そしてその沈黙を、フェルテは不機嫌に解釈する。

「今週末、デートにでも行こう」

「難しいな。週末は哨戒作戦が入ってるし、掃除当番でもある」

「そしてアザミハマにも行くんだものね」

「掃除が忙しくて無理だよ」

 フェルテは少しだけ笑った。「哨戒作戦に精を出せよ」ということだろう。生憎、僕は模範生ではないのだ。掃除のほうが気が重い。

「デートね、分かった。最優先で予定に組み込ませてもらおう」

「言ったからね」

 フェルテは裸のまま僕に覆いかぶさり、キスをしてきた。

 そしてそのまま、唇を思い切り噛まれる。

「痛!」

「今日、どうして少し遅れたの?」

 僕がフェルテの部屋を訪れたのは二二時十分だった。約束の時間より十分遅い。

 事が始まる前に追求されなかったので大目に見てもらえたと思っていたのだが、しっかり根に持たれていたようだ。

「ナキとビリヤードをしていた」

「それ、私より大事な予定だった?」

 深緑の髪が僕の頬にかかる。影の奥でフェルテの瞳がこちらを睨んでいた。

「僕だって断りたかったよ。でもナキがどうしてもと聞かなかったから一ゲームだけ付き合ったんだ。それで十分、遅れた。悪かった」

 フェルテは黙っていたが、やがて僕の言い訳を飲み込んだようで顔を上げた。蛍光灯の明かりが目に刺さる。

 明日の朝一番にナキに口裏合わせの依頼をしなければならなくなった。

 僕は軽い溜め息とともに状態を起こす。フェルテは白い水風船をゴミ箱に投げ入れた。

「ユーイチ」

「何?」

「他の女のこと考えてる?」

「まさか」

「じゃあ?」

 僕は立ち上がって窓のカーテンを開け、満月に近い月を見上げた。

「今日は九番が良い子だったなって思ったんだよ」

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