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洗顔料が黒い。
「ねぇ、あの」
僕は偶然そばで掃除をしていた、黒子のように全身真っ黒のツナギを着た清掃員に声を掛けた。
時刻は早朝。窓外の光は冬の空気とともに透明だが、そんな風情を鼻で笑うように清掃員は漆黒である。
清掃員は顔を上げ、口元を覆う頭巾を外した。若い。
「ターブラー。なんすか?」
「あのこれ、今日から配給の洗顔なんだけど、こんな黒いの?」
清掃員の男は僕の掌に出た洗顔料に顔を寄せる。
「えぇ、はぁ、そうっすね。こういう色です」
「こんなんで顔洗って大丈夫なのか?」
清掃員はう~んと首を捻ってから、思い出したように踵を返すと近場にあった台車から畳まれた段ボールを持ってきた。おそらく洗顔が入っていた箱だろう。
清掃員は箱の側面の印字に目を這わせる。
「え~っと、竹炭成分配合。油を浮かせて落とす。竹炭の微細な粒子が細かな汚れも逃さない。清涼感アップで士気もアップ。まぁ、要するに大丈夫そうっすね」
段ボールの側面にはよく名のしれた製薬会社のロゴがあった。
こういう会社が新製品や試作品を届けてくるのはよくあることだ。この洗顔料もそうなのだろう。
「そうか。ありがとう」
「いえいえ~。まぁ、こんなとこにも黒色化政策が入り込んできたかって疑う気持ちも分からんでもないっすよ。俺だってこんな服着せられてるんすからね」
清掃員は自身の黒いツナギを示す。
「でも今回の洗顔料の改良はけっこう実利的な側面からのアプローチらしいっす。炭の抗菌効果ってまぁあるらしいっすからね」
「そうか……悪いね、引き止めて」
「気になる気持ちも分かるっす。ではでは~」
清掃員は頭巾を被り直して黒子に戻ると、清掃用具を抱えて背後の便所へと入っていった。
僕は洗顔料を両の掌で薄く延ばし、意を決して顔に押し当てた。
バシャバシャと水で洗い流す。
「………………」
存外、まともな洗顔だった。
*
食堂は少し混んでいた。昨夜が遅かったので今朝は八時過ぎの起床となってしまった。早起きして食事を摂っている者や同じような時間に起きた者が溜まっているのだ。
僕はトレーを持ってレーンに並ぶ。列の先ではカウンターの向こうの給仕が客の出すトレーに食事を運んでいた。
列が進み、僕の番になる。
「やぁ、アイヴィ」
『ターン……ブラック』
給仕はにこやかに笑って挨拶をしてくれる。いつ見ても整った顔立ちだ。
「アイヴィ、今日の天気はどうだい?」
『本日は午前が曇り、午後は晴れと予報されていまス。降水確率は午前・午後ともに0%。風は南南西でス』
「ありがとう。そういや昨晩の臨時速報は見たかい? 国家第五席に隠し子がいたんだってよ。いやどんな子なんだろ———」
会話の最中、僕は後ろから思いっきり蹴飛ばされて地面に顔面をぶつけた。
「痛った!」
「ユーイチ……てめぇ、朝からイカれてんな」
僕はバッと立ち上がり、赤くなっているであろう鼻を押さえて振り返った。
不機嫌そうな、厳しい男の顔がある。
「やぁヒュージ、良い朝だね」
「俺はてめぇが朝から給仕を口説いてんのを見てキレそうな朝だがな」
ヒュージは手に持つプラスチックトレイを割り潰してしまいそうなほど手に力を込めている。その肩の奥を見れば、レーンに沿って大勢の行列ができているのが分かった。
そのほとんどの顔が不機嫌そうで、なるほどヒュージが自分を蹴ったのも頷ける。
多勢に無勢、僕は反論を諦めることにした。
蹴飛ばされた拍子に咄嗟に上に投げたトレイは無事に給仕がキャッチしてくれていたので、僕はそれを再度受け取った。どの食材も零れていない。やったね。
僕はレーンを進み、進みきったところで振り返ってカウンターの向こうの給仕に手を振った。
返ってきたのは給仕の柔らかい笑みではなく、ヒュージの爆竹みたいな舌打ちだった。
席に着く。僕は痛む腰をさすりながらフォークを持った。黒いフォークの切っ先が、これまた黒い草のサラダの中に迷子になる。
天井付近に設けられたテレビでは朝のニュースをやっていた。トップニュースはすでに終わっており、今やっているのは下らないものばかりだ。国の端っこの動物園で、全身が黒いパンダが産まれたそうだ。馬鹿馬鹿しい。
僕が欠伸混じりに朝食を突いていると、対面の椅子がギシリと引かれた。
「ターブラー」
「やぁ」
「黒いパンダって、黒熊と何が違うわけ?」
「僕は飼育員さんでもなければ動物学者でもない。つまり知らない」
僕は顔も上げずに答える。対面の者がフォークを持つ気配がした。
しかしその食指は、そいつのトレイには向かない。
「……フェルテ」
自分のトレイのブドウが串刺しにされ、僕は視線を上げた。
悪戯な顔。深緑の前髪が揺れている。
「ブドウは一人三つだ」
「ねぇ、なんだって毎朝給仕を口説いてるの?」
フェルテはブドウを口に入れ、二つ目にもフォークを刺した。無論、僕のトレイの。
「男が可愛い子を口説いて、何が悪いってんだ」
「あいつロボじゃん。人間じゃないじゃん」
フェルテが向こうのレーンを指差す。今もなお給仕が行列に向かって料理を差し出しているところだった。麗しい笑顔だ。
そしてその腕は薄橙に塗られたアルミだ。
給仕ロボ・IB-982は、上が寄越してきた最新の人形ロボットだ。IB-982は人間の女性の姿をしていた。
単に飯を盛るだけならもっと機械剥き出しでも良かったはずである。それをわざわざ女性体にしている上の考えは本当に素晴らしいと思う。未だに料理は女が作るものと考えている辺り、上の頭の古さがよく分かるといったところだ。
顔も往年の大女優を模しているが、今軍に所属してる若者の中でこの女優がタイプの男がどれだけいるのだろうか。女優に世話してもらうことに嬉しさを覚える奴なんて、ここにはいない。
上が、女優としての名声を極めた彼女を粗雑なAIとともに給仕に従事させることに快感を覚えているのだとしたら、僕はその心意気に手を叩いて称賛するだろう。
フェルテは呆れた表情で肘を突く。
「何日言葉を投げかけたって、機械は変わらないよ?」
「僕がそうしたいからそうしてるんだよ。君にとやかく言われたくないね」
「は? とやかく言う権利あるけど私」
フェルテはフォークで僕の顔を指す。黒い光沢が眼前に迫った。
「私、彼女、あんたの」
「カトラリーで人を指すな。行儀が悪い」
「なんで毎朝、後ろに迷惑をかけてまで機械を口説いてるの?」
「妬いてるのか?」
「ねぇ、昨日の夜はどこにいたの?」
僕は焼き鯖を喉に少しだけ引っかからせてから、飲み下す。
「高校時代の友人と飲みに行っていたんだ」
「アザミハマまで?」
行先まで押さえられている。フェルテは本気で僕を詰問したいようだ。
「そう。アザミハマまで」
「ふぅ~ん……」
僕は外見だけ泰然を偽って、フォークの端で魚の骨をより分け続ける。フェルテは少しの間黙っていたが、ハッと溜め息を吐くと、ガツガツと朝食を食べ始めた。
「よく噛まないと消化に悪いよ」
「今夜、私の部屋に来て」
「食堂でそういう話をするもんじゃない。朝からそういう話を聞きたくない人だって大勢いるんだよ」
フェルテは空にした自分の食器を問答無用で僕のトレイの上に重ねる。
「あんたそれ、人のこと言えるの?」
フェルテは胸ポケットからメモ帳とペンを取り出し、手早く書き置きを残して席を発ってしまった。僕はコップに残った水をゆっくりと飲み干してから立ち上がる。メモを摘む。
二人分のトレイを返却棚に片付けてから、改めてメモの内容に目を通す。
『二二時 フェルテ・ディクラウン』
僕は未だに列ができているレーンの脇を通り、IB-982に手を振ってから食堂を後にした。給仕は目先の労務に集中していて顔もあげない。代わりにレーンに並んでいた数名が僕に中指を立てた。
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