H.E.L.L.O.
黒田忽奈
1
全てを覆い隠す甘い香りが室内を満たす。
ここでは誰もが痕跡を残せない。残り香も、声も、足跡も、汗も、髪の毛の一本すら、事が終われば綺麗に片付けられる。どんな大物も、重鎮も、危険人物も、ここでは平等に痕跡を消されるべき一夜の旅客だ。
「ふぅ……」
そんな香りで満たされている空間なので、彼女が吐き出す白煙も尽くその存在を希薄にしていっていた。
僕はベッドの上で仰向けになっていたが、漂う煙を眺めていてようやく上体を起こす決意をした。柔らかいマットに左手を沈み込ませて起き上がる。
明かりの落とされた部屋の中で、白煙を吐き続ける彼女と目があった。
正しくは、目があった気配がした。
彼女の瞳は黒曜石のように漆黒だった。そして結った長髪は烏の羽、肌は夜空だ。僕と同じく服を着ていないが、その肌色はこの室内において何よりも有効な保護色となっていた。
この暗い部屋の中では彼女の存在を捉えることは難しい。
「……それで」
だから彼女から声をかけられるまで目があっている自身はなかった。
「ログは取れたのかしら?」
「僕がここにいるっていうことは、そういうことだよ」
僕はこれを伝えるために彼女の元を訪れたのだ。
暗闇の中、彼女が少し微笑んだように見えた。
「良かったわ。死なれたら元も子もないからね」
「在宅ログと出張ログを過去二年分、回収率は三二%。まぁ上等だね。命懸けで潜入した甲斐はあった」
「これで、告発にまた一歩近づいた……」
彼女は僕の報告を受け、噛みしめるように、刺繍するように呟いた。
告発に、また一歩近づいた。
彼女はベットの脇の華奢な衣紋掛から上着を取り、羽織った。闇の中に灰色の生地が、彼女の輪郭を浮かび上がらせる。
「データを送ってもらいたいのだけど……今持っているかしら?」
僕は返事をする代わりに右腕で力こぶを作るようなポーズをし、左手で右腕の二の腕あたりを叩いてみせた。
カンカンと金属質な音が響く。
それを見て彼女は溜息を吐いた。
「証拠と共に出歩いて……捕まったらそのまま極刑よ?」
「大丈夫。僕の右腕には小型爆弾が仕込まれてるからね。危なくなったら当局もろとも道連れだよ」
「………………」
僕はベッドから起き上がって服を着る。真っ黒なジャケットとパンツはやや光沢のある質感なので、彼女の肌よりは輪郭がはっきりと浮かび立つ。
僕は右腕を捲り、義手の表面の蓋をスライドさせて内からメモリーカードを取り出して彼女に差し出した。彼女はカードを受け取ってどういうわけか胸元にしまい込む。
「ありがとう。後で確認させてもらうわ」
「次の連絡はいつになりそう?」
「来週末」
彼女は灰皿に灰を落として言う。
来週末といえば僕は哨戒作戦を任命されていたので、頭の中でちょっと予定を組み立て直す必要がある。
「分かった。調整しておこう」
「大丈夫なの?」
彼女は同じ質問を繰り返す。
「大丈夫だよ。ここに来ていることは誰にも気づかれていないし、僕が休暇をどう使っているかなんて怪しまれてすらいない。体調管理も問題ないし、僕のスケジュールは矛盾なく組むことが……」
彼女は黒い口紅で薄く色づいた煙草を口元から外し、それでもって僕の口を塞いだ。
そしてから再度、口を開く。
「馬鹿ね。私が大丈夫か聞いてるのは、あなたのお友達のことよ」
お友達。僕の脳裏に一つの人影が浮かぶ。
「隠せていないと思って? 私が今までどれだけの男を見てきたと思ってるのよ」
僕は少し彼女の味がする煙を吐き出す。
「君のことを騙そうとしたわけじゃないよ。これはこれで必要なことなんだ」
彼女は肺に少し残っていた煙も吐き出して、先程までの情緒的な色をまったくなくした呆れた目で僕を睨んだ。
「君が言いたいことは分かるよ。確かに、僕は君の存在を彼女に対して秘匿している。道徳的に気持ちの良いことではないかもしれないね」
でも、と僕は続ける。
「でも彼女が無闇にこのことについて知るのは危険だ」
これは危険な作戦だ。僕と眼の前の彼女と、一部の構成員しか関与していない極秘作戦。その一部の構成員の存在というのも、僕は彼女を通してしか知らない。つまり僕は彼女以外の同胞を知らなかった。
それだけ規模の制限された作戦なのだ。
「あのね……どちらか一方に集中することも、悪くない選択肢だと思うわよ」
彼女は忠告する。
どちらか一方。
つまり、彼女———眼の前にいるテフォンのことだが———と共に作戦を遂行することか、テフォンの言う僕の彼女———こちらは基地にいるフェルテのこと———と一緒に暮らすことか、そのどちらかに専念した方が良いと言っているのだ。
「心配してくれてありがとう」
僕は礼を言う。
「でも本当に大丈夫なんだ」
「………………」
テフォンは信じきれない瞳で僕を見る。
僕はその瞳に、僕の過去でもって答えた。
「僕が君と作戦を共にするのはこの国のためであって、それはフェルテの笑顔を取り戻すことにも繋がるんだ。つまり二人と一緒にいるのは表裏一体、コピー紙の表と裏なんだ」
僕は彼女の肩を掴む。
「大丈夫。うまくやれるさ」
「……来週末の予定、開けておいてね……ちゃんと」
僕は頷いた。
夜の空気が体内を冷やす感覚が好きだ。
歓楽街・アザミハマ。深夜であっても喧騒がコンクリートの群れを満たして止まらない。黒が国色なのである。夜になれば人々が国威を感じて騒ぎ立てるのも当然といったところだろう。
駅舎に入り、改札をくぐってホームへ。灰色のコンクリートでできた床に、これまた黒色の点字ブロック。配慮や実利が二の次となった建築物は狂ったこの国に実に相応しい。
黒光りする列車がホームに滑り込んでくる。およそ市街地を走らせて良い代物ではない古い列車は、兵器かと思うほどデカいブレーキ音を嘶かせて停止した。
自動ドアが限界ギリギリといったふうに軋んでスライドする。車内にはシートがなく、手すりと吊り革が林立しているのみ。
そんな貧相な電車であっても、手すりやつり革に体重を預けて眠っている者が多い。僕は掴まるものがなかったので、場所が空いていた車窓に背中を預けることにした。
列車が動き出す。断続的な振動が続く。
(来週末、哨戒作戦に加えて寮内の掃除も詰め込まれてたな、確か)
肩に寄りかかってきた知らない男の眠った身体を逆方向に押し返しながら、僕は予定を組む。どちらかといえば掃除の方が面倒臭い。清掃員だけでは手が足りないのだ。
(ま、できないことはない)
何事もやらなければならない。
肩の男は疲労困憊といったふうにゆらゆらと揺れている。この調子だと終点までこのままなのではないだろうか。
「もし、お兄さん」
もう少し加減をしたらどうなんだと言いたくなるほどの急ブレーキの中、僕は眠っていた男の肩を叩いた。
男は寸断された夢の欠片を探すように瞬きをしてから、不思議そうに僕を見た。
「もうカゲヤマです。どこ降りですか」
「お、あ、あぁ、悪いな。俺は次だ。大丈夫」
「そうですか。では」
僕はカゲヤマ駅で降りる。ホームの空気が冷えていて心地良い。
列車からは僕以外にも数人が降りた。
皆は一様に同じ方向へと歩く。僕も同じ帰路だった。
暗い路地を示し合わせたように、一直線。
明らかに同じ色を持つ者共。しかしその間に言葉はない。
そんな仲じゃないのだ。
航空障害灯が明滅する巨大な建物に、僕らは帰る。
(そんな仲じゃ、ない……)
僕は暗い自室で冷えているであろうベッドを想像し、その冷たさを彼女から受け継いだ熱で少しは溶かせるだろうかと考えた。
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