絶ち鋏

あけび

絶ち鋏

 友達とは何だろうか。茂上もがみ泰斗たいとはパソコンをタイピングしながら、ふとそんな問いを心に浮かべた。

彼の脳裏にまず思い浮かんだのは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』で語られた友情論だった。

友情には大きく分けて三つの種類があるという。


1.快楽に基づく友情:一緒にいて楽しいから

2.有用性に基づく友情:お互いに役立つから

3.善に基づく友情(徳に基づく真の友情):相手の人間としての善を愛する


このうち、三番目こそが最も価値があり、かつ長続きするとされている。彼がこの論を思い出したのは、決してそれを批判し、逆説をろうして奇をてらうためではない。むしろ、彼自身も深く納得していると言ってよかった。ではなぜ、彼はこの論を頭に浮かべたのか。それは、身の回りの光景にどうしても違和感を覚えてしまうからだった。この論に従うならば快楽や有用性に基づく友情は、長続きしないはずだ。にもかかわらず、彼のクラスメートたちは趣味が合うから、ノリが合うから、あるいはは自分とは違う部分が面白いから、という理由で気軽に友達を作っている。なんでだろう、なんでそんな軽々しく友達を作るのだろう。彼には、それが不思議でならなかった。長く続かないことがわかっていながら友達を作るという行動に出る理由は、彼には、それがどうしても理解できなかった。長く続かないと分かっていながら、なぜ人は友達を作るのか。考えれば考えるほど、蟻地獄のように思考は深みに沈み、出口が見えなくなっていく。小さい頃、何度も耳にした「友達をたくさん作りましょうね」という言葉を思い出す。なぜ大人たちは、子どもたちにそう脅すように言うのか。それは、「友達がいない=ぼっち=社会に適応できない」という連想によるものなのだろうか。だが本当に、そんな単純な式が成り立つのだろうか。確かに今までは成り立つことも多かっただろう、ただコミュニケーションが取れないからと言って社会から除け者にされる時代は終わったのだ。インターネットが世に普及し、今までの常識という常識が覆り始めている。戦前までは男尊女卑が当たり前だった日本も、戦後には「法の下では」平等になった(「法の下では」を強調しているのは、完璧に男尊女卑が淘汰されたわけではないからである)。「女は家事、男は肉体労働」、そんな言葉も、今では通用しなくなっている。それと同じように、「コミュニケーションできなければ社会に適応できない」という思い込みも、いずれ過去のものになるだろう。だから彼には友人は一人しかいなかった。それで十分だった。たった一人の自分と同じ考えを持つ、互いに共感しあえる朋友ほうゆう。彼が唯一心を開き、その親友が唯一彼に心を開いている。なんてきらびやかで、嘘偽りのない感情なのだろう。これを超える信頼は、彼の辞書にはなかった。彼はこの、多くの友達を作ることが無駄だということを説明するときに、よく迎合という言葉を使う。快楽や有用性に基づく友達とは、必ずどこかで性格や趣味が合わない部分が出てくる。そこで無理に相手に合わせようとする──所謂いわゆる「迎合」だ。わざわざそれぞれの有象無象な友達に逐一合わせ、顔色をうかがい、疲弊する。そんなことに意味があるだろうか?彼にとっては、まったくの無意味だった。案の定、彼はほとんど誰とも話さないことにより引きこもりがちであるが、それでも彼は気にしていなかった。ネット上で小説を書いたり、ゲームを作ったり、ゲームをやって実況動画をYouTubeにあげたりしているのが、彼の一番やりたいことだから。

 友達を作らないと、どんなデメリットがあるのだろう。世間でよく言われるのは、孤独死や将又はたまた認知症だろうか。一人寂しく死んでいくことを防ぐために、友達を作りましょう。会話が減ると脳が衰え、言語障害や認知症につながるから、友達を作りましょう。とか、そんなところだろう。どちらにせよ彼は気には留めなかった。それは未来のことだからである。未来のことは誰しも想像することが難しい。中学生や高校生の頃、進路探求というものがあったがあれを面倒くさがるのは、「未来のことなんで綿密に想像できないし、その思い描いた通りになっているとは限らない」と感じるせいである。例え一人で死ぬことになっても、それはそれだ。認知症になったら、なった時だ。今この瞬間を、生きるだけだ。断っておくが、彼は決して死に無頓着で軽んじているわけではない。人間はいつか死ぬからと言って、今死ぬのは誰だって怖い、でも人間は「刻一刻と死に近づいている」という感覚には、余りにもうといが過ぎるのだ。人間は死に近づくと、それを恐れおののき、回避しようとする。しかし、日常の中で少しずつ近づく死には、驚くほど鈍感でいる。しかも認知症は怖いと思っていても、いざ自分が認知症になると自分はそれを認知症と感じることはできないだろう。だからそんな未来のことまで考えて、友達を作る必要なんてないと思っている。

 彼が親友と出会ったのは、小学生の時だ。名前は新田にった明人あきと。小学校のクラスで隣の席になったことが始まりだった。二人が通っていた学校は大都会にあり、1学年7クラスの大規模小学校であった。だから小学5年生になるまで一緒のクラスになることはなかった。でも進級して初めて席が隣になった瞬間に泰斗は気付いた。この子からは僕と同じ雰囲気をかもし出している。きっと一人が好きなんだろうな。静かで、厳かな雰囲気で、すごい姿勢がいい。そして向こうが話しかけてきてくれた。

よろしく。」

この一言は、今まで聞いたどの宜しくよりも心地よかった。いつもやってることとか、そんな話から始まった。在り来たりな会話に普段なら飽き飽きしているところであったが、その子だけとは苦じゃなかった。そして明人がいつも一人で過ごし友達ができたことがないということを聞いて、肩の力が一気に抜けた。それは心の底からの安堵あんどであり、共感であった。馬が合うを越えた存在、もう一人の茂垣泰斗と言っても何ら違和感はなかった。

 だが裏切りはいつだって唐突にやってくる。高校まで一緒に進学した二人は、またしても偶然、同じクラスになった。泰斗は内心、安堵していた。これからも変わらず、あの静かな友情が続いていくものと信じていたからだ。だが、明人は変わっていた。いいや──正確には、「変わり始めていた」のだ。最初に気付いたのは、髪だった。明人の髪は、中学時代までの真っ黒なストレートから、茶色に染められ、軽くパーマがかかっていた。眼鏡もなくなり、代わりにコンタクトに変わっていた。所謂いわゆる高校生デビューというやつだった。泰斗は最初、それを「何かの気まぐれ」だと思った。あるいは外見だけの変化で、中身は何も変わっていないはずだと信じたかった。けれど、変わったのは見た目だけではなかった。クラスが始まって数日経った頃には、明人は自然とカースト上位のグループの輪の中に溶け込んでいた。昼休み、彼の席はいつも誰かに囲まれていた。笑い声が絶えなかった。彼が話しているのは、泰斗ではなかった。泰斗は、その光景を遠巻きに眺めながら、自分の胸が少しずつ冷えていくのを感じていた。ある日、放課後のことだった。泰斗は意を決して、明人に話しかけた。

「……最近、忙しそうだね」

その一言に、明人は一瞬だけ間を置き、ほんの少しだけ困ったように笑った。

「ああ、ごめん。まぁ……なんか、いろいろとさ」

その笑みは、かつて自分に向けられていたものと同じではなかった。ほんのわずか、よそよそしさが混じっていた。それを敏感に察知した自分が、嫌だった。

「……楽しいの?」

無意識にそう聞いていた。

「うん、まぁね。前より、色んな人と話せるし」

その答えに、泰斗は何も返せなかった。何かが胸の奥で崩れた音がした。──ああ、そうなんだ。君は、変わってしまったんだ。泰斗は落胆しなかった。怒りもしなかった。ただ、自分の見る目のなさに呆れた。それだけだった。五年間、ずっと信じ続けた「同志」が、実はただの「一時的な共感」でしかなかったという事実。それを突きつけられただけだった。それから彼は、明人に話しかけることをやめた。明人も、それを追いかけることはなかった。人間は、予想通りに不合理的な選択をするものだ。


泰斗は、改めてその言葉を噛み締めていた。


 デスクに向かって、泰斗は作業を黙々と続けている。ああ、早くゲームを完成させなければ。アイデアが止まらない。思い立ったが吉“時”、それが信条だ。後ろで無造作につけっぱなしだったテレビの爽やかな音が鳴る。

「世界で人気を誇るTyte_Lタイトルさんが、新作ゲームの発売予定をXでポストしました。」

──ああ、またか。勝手に報道してろ。僕は僕のやることをやるだけだ。小中高の同級生たちは、彼が名を知られ始めた頃から、XのDMで連絡を寄越すようになった。

「久しぶり!小学校の頃の同級生の○○だけど、元気してる?すごいな、今はこんな有名人か。今度暇?時間あったら場所指定するから来てほしいな。」

こんなメッセージが、結構来てた。きっとみんな昔は僕のこと馬鹿にして、友達いないで独りぼっちだって卑下してたんだろう。僕が有名になったから、声をかけてきたってだけだ。──くだらない。薄っぺらい。彼はそう思っていた。明人からもこんな手紙がポストに投函されていた。

「久しぶり、明人です。いかがお過ごしでしょうか。僕は大学で経営学を学んで、会社の同僚と結婚しました。毎日充実した日を過ごしています。(省略)小さい頃は、ずっと友達でいてくれてうれしかった、ありがとう。」

一行、一行、目を追うたびに、体のどこかが冷たくなっていった。気付けば、その手紙は幾つもの欠片になって、床に舞っていた。ただの自慢にしか聞こえなかった。──いきなり何なんだよ。何年も音沙汰なしで、突然手紙ひとつ。こっちは、あの時間が人生のすべてだったんだぞ。それをお前は、「ありがとう」だけで済ませるのかよ。

 同級生たちのXアカウントも、すべてブロックした。僕が裁ちばさみになるんだ。過去との関係なんて、もう必要ない。この記憶を切ってしまえば、きっともっと自由になれる。──まるで、“絶ち鋏”だな。なんて皮肉だろうか。さぁ、作業に戻ろう。ゲームが完成したら、この現実を小説にして発表するんだ。僕の全てを詰め込んで、偽りのない、ノンフィクションを。誰もいない一畳間で、彼はそうつぶやく。

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