第21話:戻る足跡

朝霧が薄く立ち込める広場に、緊張が走っていた。


 備蓄小屋に忍び込んだ者がいる。盗まれたのは――帳簿だった。


 物資そのものではない。

 だが、数字こそがこの村の命綱だ。量、配分、備え。それらすべてを記録した帳面。


 それが消えたということは、村の命を握られたに等しい。


「鍵は……壊されておらん」


 宗次郎の声が、やけに冷静だった。


「開けられた。中からな」


 湊は、胸の内に鈍いものを感じていた。

 この村で鍵を扱える者は限られている。兵でも数名、村人に至ってはもっと少ない。


 これは、内部の犯行だ。


「他に気になる点は?」


「……入口の土が乱れていた。誰かが、外からではなく“戻る”ように歩いた痕跡がある」


 湊は頷いた。


(戻る……誰かが、中の情報を持ち出して、それを持って、戻ってきた)


 それは、まるで“盗みではなく、報告”だ。

 武田方への報告――。


 思い浮かぶ顔が、あった。

 慎吾。


 そして、もう一人。


 仁兵衛。


 あの日の夜。会議を“こっそり聞いていた”はずの仁兵衛。

 その行動を咎めはしなかった。

 だが――


(……見逃したのは、失策だったか)


「……権六。念のため、備蓄小屋の見張りを増やしておけ。今後、出入りにも目を光らせるように」


「心得た」


 命じながらも、胸の奥に残るざらつきが消えない。


---


 その夜、焚き火の前。

 仁兵衛は、湊の前で黙っていた。


「……で。お前が見張りから外れていたのは、なぜだ?」


 湊の声は静かだった。

 怒りも、疑いも、露骨には出さない。ただ、真っ直ぐだった。


 仁兵衛は、少し俯いた。


「……火の番が遅くなってて。水を汲みに、井戸の方まで」


 言い訳としては、薄い。

 だが、その顔に“嘘をついている”という気配は見えない。


「偶然、だと?」


「……はい」


 短く、だが力なく頷く。


(だが、それだけか?)


 湊は、視線を焚き火に落とす。

 赤く燃える炎の奥に、揺れる何かを感じていた。


---


 一方、宗次郎は静かに詰所に戻りながら、独り言のように呟いていた。


「“戻る足跡”……それはつまり、敵が内にいるということだ」


 顔には出さなかったが、疑念は確実に深まっていた。


(敵が外にいるなら、対処はできる。だが、内側にいるなら――)


 宗次郎の拳が、静かに震えていた。


---


 夜更け。

 仁兵衛は一人、外れの柵に腰掛けていた。

 その手には、丸められた小さな布。

 何度も指先で触れた跡がある。


「……慎吾。お前、何をしてるんだよ」


 ぽつりと、呟いた。


 誰にも聞かせるつもりはなかった。

 けれど、抑えきれずに言葉が漏れた。


(……俺が、見逃したのか。

 それとも、信じてたから、見ないふりをしたのか)


 風が、冷たく吹き抜ける。


 そのとき、遠くの闇の中で、ひときわ鋭い鳥の声が響いた。


 仁兵衛は、顔を上げる。


 目の前にあるのは、広がる闇と、うっすら白む東の空だった。


 自分の“選んだこと”が、村の明日をどう変えてしまうのか。

 その答えは、まだ見えない。


(……殿。もし、あんたが本当に全部見通してるなら。

 それでも俺を信じてくれるなら。


 どうか、もう一度――俺のこと、叱ってくれ)


 その言葉は、夜の闇に溶けていった。


 月は隠れ、雲が低く垂れ込めていた。

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