早瀬くんを殺したい99の理由
一文字一(いちもんじはじめ)
静謐なる殺意と、その理由
放課後の図書室は、わたしの聖域だ。
整然と並ぶ書架、埃一つない閲覧机、そして何よりも、思考を妨げるもののない完璧な静寂。窓から差し込む午後の柔らかな光は、まるで知の探求者を祝福しているかのようだ。わたしはその祝福を受けながら、難解とされるショーペンハウアーの哲学書と向き合っていた。厭世観の根源、意志と表象としての世界……完璧な計画に基づき、わたしの知性は今、深淵へと漕ぎ出そうとしていた。集中、集中……。
「……ふぅ」
深く息をつき、読み進めた箇所に小さな付箋を貼ろうとした、その時。すぐ隣の椅子が、ギ、と音を立てて引かれた。まさか。この静寂を尊ぶ聖域で、しかもわたしの隣に座ろうなどという、無粋な人間がいるはずが――。
顔を上げると、そこには、いるはずのない……いや、いてほしくない人物が、実ににこやかに、そして当たり前のように座っていた。
「やあ、恋春大先生。今日も難しいお顔で、難しい本と格闘してらっしゃる」
早瀬蓮くん。わたしの完璧な日常に、予測不能なノイズをもたらす唯一の存在。彼はこともなげに自分の鞄から持ち込んだらしい漫画雑誌――よりによって最新号の『週刊少年ジャンプ』だ――を取り出し、悪びれもなく読み始めながら、軽い口調で話しかけてきた。
(なっ……!? なぜこの人がここに!? しかも、わたしの隣に!? この聖域に土足で踏み入るような真似を……! しかも、そのような俗な雑誌を……!)
瞬間、わたしの集中力は音を立てて崩れ落ちた。彼の存在そのものが、この空間における最大のエラー要因なのだ。ドクン、と心臓が警告音のように不規則に脈打つ。思考回路に赤いランプが点滅するのを感じた。
「……ここは静かに読書をする場所です。私語も、そのような俗な雑誌を持ち込んで読む行為も慎んでください!」
わたしは努めて冷静に、小声で、しかし有無を言わせぬ厳しさで注意した。視線は頑なに哲学書へと戻す。彼の方を見てはいけない。彼の顔を見ると、わたしの思考は完全に停止してしまうのだから。
「おっと、これは失礼仕った。つい、恋春大先生のあまりに真剣なお姿に、感銘を受けて声が出てしまった次第でござる。雑誌の持ち込みは……まあ、ご愛嬌ということで」
彼は悪びれる様子もなく、むしろ面白がるような口調で続ける。しかも、わたしの顔を覗き込むように、わずかに身を乗り出してくるではないか!
(ぐっ……! ち、近い……! パーソナルスペースへの侵犯です! しかも反省の色がない!)
顔にぶわりと熱が集まるのを感じる。わたしは反射的に顔を背けた。
「な、何の用ですか! 用がないなら、他の席へ移動してください! あなたの存在は、わたしの知的活動を著しく妨害します! このショーペンハウアーも草葉の陰で嘆いていますよ!」
「ひどい言われようだなあ、僕もショーペンハウアーも。僕だって、ただ静かに『週刊少年ジャンプ』を読みに来た善良な一市民だってのに。まあ、恋春ちゃんの隣が偶然、本当に偶然、空いてたから座っちまったけどな」
彼は肩をすくめる。
「それにしても、その難しそうな本、本当に内容理解してるのか? もしかしたら、古代文字で書かれた呪文書で、読んだ者に不幸をもたらすとか……いや、むしろ僕に呪いをかけるために熱心に解読してたりして。『早瀬蓮、明日から語尾にニャンがつく呪い』とか」
「ふ、不敬です! これはドイツ観念論における重要な哲学書です! あなたのような、少年漫画ばかり読んでいる俗物には、その価値の百分の一も理解できない高尚な……!」
思わず熱くなって反論してしまった。しまった、彼のペースに乗せられている!
「へー、哲学ねえ。人生とは、とか、愛とは、とか、そういうお年頃の悩みを抱えてらっしゃる、と。なるほどなるほど、恋春ちゃんも人の子、悩める乙女ってわけか。実に、可愛いではないか」
彼は楽しそうに口の端を上げる。その、いとも容易く発せられた「可愛い」という単語の破壊力たるや! わたしの心臓は、警鐘を乱打するように激しく高鳴り、思考回路は完全にオーバーヒートを起こした。
(か、か、可愛い!? な、何を根拠に!? しかも、悩める乙女ですって!? わたしは常に論理的かつ客観的に事象を分析し……! ああもう! この人はいつもいつも!)
頭の中では流暢な反論が渦巻いているのに、口から出てくるのは意味不明な音ばかりだ。
「あ、う……そ、そんなこと……では……!」
「お、また顔が真っ赤だぞ、恋春ちゃん。図星を突かれて動揺しているのかな? ま、そういう、一生懸命で分かりやすいところも、なかなか趣があってよろしい」
彼はわたしの反応を逐一観察し、実況するように楽しんでいる。悔しい! 腹立たしい! なぜわたしは、この男の前でだけ、完璧な「橘恋春」でいられないのだろう!
「黙りなさい!」
わたしは、もはや囁き声とは言えない、しかし図書室の空気を震わせるほどの強い声で言った。
「あなたのその不躾な発言と存在は、この神聖な空間に対する冒涜です! 静粛に!」
「はいはい、静粛に、ね。承知いたしました」
彼はわざとらしく恭しく頷くと、ふと、わたしの開いているノートに視線を落とした。
「ふーん、でもノートの字は、意外と丸っこくて可愛いんだな。恋春ちゃんだから、もっとこう、定規で引いたみたいにカクカクした、几帳面な字かと思ってたぜ」
(ノートの字……!? わたしの字を……可愛い……!?)
それは、完全な不意打ちだった。彼に、わたしのコンプレックスでもあった、少し丸みを帯びたこの文字を、「可愛い」と、そう言われた……?
瞬間、思考が停止した。頭が真っ白になり、全身の血液が沸騰して顔に逆流したような感覚。視界がチカチカと点滅し、呼吸が浅くなる。もう、ダメだ。限界だ。わたしの築き上げてきた完璧な理性の壁が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく……!
「〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
声にならない悲鳴が、喉の奥で爆発した。
「こっ、こっ、殺しますよっっっ!!!」
涙で視界が滲む中、わたしは全身をわなわなと震わせながら、彼を睨みつけた。それはもはや警告ではなく、完全に制御を失った感情の奔流、SOSの絶叫だった。図書室の静寂を切り裂き、その言葉だけが異様に響き渡る。
早瀬くんは、一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、すぐにいつもの、あの人を食ったような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「おっと、ついに来たか、本日のメインイベント。物騒だなあ、恋春ちゃん。しかも、BGMはページのめくれる音と、遠くで聞こえる誰かの咳払いのみ、というシュールな状況下で。いいねえ、そのギャップ。静謐なる殺意、って感じ? 文学賞狙えるぜ」
「なっ……! ふ、ふざけないでください!」
「いやいや、ふざけてないって。むしろ感動してるんだぜ? こういうのをギャップ萌えって言うんだろ? 僕は今、まさにそれを体験しているわけだ。貴重な体験をありがとう」
彼はなぜか感謝までしてくる。もう訳が分からない!
「だ、黙りなさい!!!」
「はいはい」
彼は軽く手をひらひらさせて、わたしの怒りを柳に風と受け流す。
「まあ、僕を殺すのは営業時間が終了してからにしてくれや。今、この漫画がクライマックスなんだ。それに、ほら、あそこの司書の先生、こっち見てるぜ? 鬼の形相だ」
彼は周囲を気にする素振りを見せる。見ると、確かにカウンターの向こうで、司書の先生が厳しい視線をこちらに向けていた。
「……っ!」
わたしは唇を強く噛み締めた。悔しい。腹立たしい。けれど、これ以上、ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。わたしの完璧なイメージに傷がつく。
「というわけで」
彼は悪戯が成功した子供のように笑う。
「恋春ちゃんからの殺人予告、予約受付完了いたしましたー。ただいま大変混み合っておりますので、整理券番号#51番の恋春さまは、あちらの『断罪待ち合いスペース』にて、今しばらくお待ちくださいませ」
彼は空いている閲覧席の方を、丁寧な仕草で指し示した。
「なっ……!!!」
もう、言葉も出ない。沸騰した頭と真っ赤な顔のまま、わたしは彼を睨みつけることしかできなかった。
(あああああああもう!!! この人は!!! いったいなんなんですか!!! 人の集中力を奪い、心をかき乱し、からかい、おかしなことばかり言って!!! 絶対に許さない……! いつか、いつか必ず、この借りは……!)
わたしはもはや限界だった。哲学書を乱暴に閉じ、ノートと共に鞄に叩き込むと、椅子を蹴るようにして立ち上がり、足早に図書室を後にした。背後で、早瀬くんが
「あれ? 恋春ちゃん、もう帰り? ショーペンハウアーはいいのかー?」
と呑気な声で言っているのが聞こえたが、振り返る余裕など微塵もなかった。
今日の学習計画は、完全に、そして無残に破綻した。これも全て、早瀬くんのせいだ。彼のせいで、わたしの心臓は危険なほど高鳴り、思考は麻痺し、完璧なわたしは見る影もなかったのだ。
人気のない階段の踊り場で、わたしは荒い息をつきながら立ち止まった。そして、鞄から例のノートを取り出す。表向きは学習ノート、しかし最終ページには『早瀬くんを殺さなければならない理由』が記されている、わたしの秘密のリスト。
深呼吸を一つ。今日の屈辱と混乱を、記録しなければ。新たな「理由」として。わたしはペンを握りしめ、#51とナンバリングし、今日の出来事を簡潔に、客観的に記述しようとした。
理由#51:図書室での静寂を破り、わたしの集中力を著しく妨害。さらに不必要な身体的接近及び心理的動揺を誘発する発言を繰り返し、最終的にわたしに殺人予告をなさしめた罪。
……違う。これでは状況説明に過ぎない。もっと核心を突いた、本質的な理由を記さなければ。わたしの心を最も乱した、あの瞬間を。わたしは書いた文章を線で消し、改めてペンを走らせた。
理由#51:彼が、わたしの字を可愛いと言ってくれた。
……ふぅ。これで、よし。今日の出来事の本質を、的確に記録できたはずだ。わたしは満足してノートをパタンと閉じた。これでまた一つ、彼を排除すべき明確な理由が積み重なったのだ。
わたしは再び歩き出す。胸の奥の嵐はまだ収まらないけれど、やるべきことをやったという、奇妙な達成感があった。
(まったく、本当に厄介な人です。でも……可愛い字、か……)
わたしの字を、彼はそう見てくれた。その事実だけが、なぜか心の片隅で、小さな、でも消えない灯りのように瞬いている気がした。
(……早瀬くん。あなたのその、人を食ったような態度も、無神経な言葉も、全部全部、腹立たしい。だから、また一つ、あなたを殺さなければならない理由が増えてしまいましたよ! ……それなのに、どうしてでしょう。胸のこのドキドキは、少しも収まってくれないのです……ばかぁっ!)
結局、わたしは今日も彼に振り回され、心を乱され、そして……どうしようもなく、ほんの少しだけ、嬉しいと思ってしまった自分に、気づかないフリをするしかなかった。
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