銀の月 匠の夜

一十 にのまえつなし

ある嵐の日のこと

 彼は名高い銀職人であった。その手から生まれる細工物は、祭りの時期ともなれば市場で瞬く間に売り切れた。だが、彼の評判を支えていたのは、単なる創作の才だけではない。どんなに古び、鈍く曇った銀も、彼の手にかかれば生まれたばかりの月光のように輝きを取り戻す――その修復の技こそが、人々の口に上る理由であった。


 これは、彼がまだ若く、技に驕ることもなく、ただひたすらに銀と向き合っていた頃の話である。

 ある嵐の夜のこと。空は黒い雲に覆われ、雷鳴が都の石畳を震わせていた。馴染みの客から頼まれた品を用意し、職人は店を開けて待っていたが、客は一向に現れなかった。カウンターには、いわくつきだと囁かれる品々の手入れの依頼が積まれていた。曰く、呪われた銀、曰く、持ち主を狂わせる宝物。だが、嵐の気配に心は重く、職人はそれらに手を付ける気になれなかった。

「もう店を畳んで、火酒でも煽って寝てしまおうか」

――そんなことを考え始めた時、店の扉が勢いよく開いた。

 風と共に現れたのは、黒い外套に身を包んだ女官だった。外套の隙間から覗く肌は皺に刻まれ、声はかすれていたが、その仕草は優雅で、纏う衣は絹と金の刺繍で飾られていた。一目で上客と分かる姿だった。

「申し訳ございません」と女官は言った。

「お屋敷までおいでいただき、銀の手入れをお願いしたく存じます。報酬は惜しみません」

 職人は一瞬躊躇した。嵐の夜に店を離れるのは億劫だったし、手入れの仕事は好きではなかった。だが、こんな高貴な客の屋敷に出入りできるようになれば、商売の道が開けるかもしれない。職人は道具を手に、女官の後を追った。

 馬車に揺られ、たどり着いた屋敷は壮麗そのものだった。都の外れ、霧に包まれた丘の上にそびえるその建物は、まるで千夜一夜の物語に描かれる王宮のようだった。

 門をくぐると、職人の心に不穏な予感が走った。屋敷に仕える者たちは、すべて女だった。しかも、彼女たちの目はどこか虚ろで、華やかな衣装に反して、生気が薄いように見えた。 


 通された部屋は、まるで後宮の奥深くを思わせた。そこには、かつて王族や貴人が愛したであろう銀の品々が並んでいた。銀の杯、首飾り、鏡、燭台――どれも精緻な細工が施された逸品だったが、長い年月に曇り、輝きを失っていた。職人は道具を広げ、黙々と仕事を始めた。

 作業に没頭するうち、女たちが部屋に集まってきた。彼女たちはみな美しいが、その美しさには翳りがあった。まるで、かつての栄光を閉じ込められた亡魂のようだった。

「この品々はどう思う?」と一人の女が尋ねた。彼女の声は、まるで風に揺れる絹のようだった。

「どれも見事な品でございます」と職人は答えた。「傷みはなく、まるで秘宝のように大切に蔵されていたかのようです。」

 別の女が、かすかに笑みを浮かべた。

「そう、これらはあの方の宝物だった。あの方にとって、価値は手に入れる瞬間にある。ひとたび手に入れば、もう顧みることはないのだ」

 その言葉に、職人の胸に怒りが湧いた。

 こんな美しい銀細工を、ただの蒐集品として放置するとは。作り手は、心を込めてこれらを生み出したはずだ。職人はそんな思いを胸に、なお一層丁寧に銀を磨き続けた。道具の音だけが、静寂の中で響いた。


 どれほどの時間が過ぎたのか。最後の一品――銀の鏡を磨き終えた時、職人は疲れ果てていた。だが、磨き上げられた銀たちは、まるで星々の光を宿したように輝いていた。


「お送りします。」

 声をかけたのは、最初に店を訪れた女官だった。だが、彼女の姿は一変していた。皺だらけだった肌は若々しく輝き、声は鈴のように澄んでいた。まるで別人のようだった。

 屋敷を出る際、すれ違った他の女たちもまた、くすんだ表情を脱ぎ捨て、華やかな笑みを浮かべていた。その美しさは、まるで銀の輝きそのものだった。

 女官は職人に向かい、深々と頭を下げた。

「あなたの技に感謝を。この輝きは、わたしたちの魂を救った。」

 その言葉の意味を問う前に、職人の意識はふっと途切れた。


 目を開けると、職人は店のカウンターに突っ伏していた。嵐は止み、窓の外には朝の光が差し込んでいた。

「なんという夢だったのだ……」と呟きながら、職人は身体を起こした。疲れは残っていたが、気にかかっていた仕事を片付けることにした。それは、預かったまま放置していた、いわくつきの銀の手入れだった。


 包みを開けた瞬間、職人は息をのんだ。そこには、夢の中で磨き上げた銀の品々が、寸分たがわず並んでいた。杯、首飾り、鏡、燭台――すべてが、まるで月光を閉じ込めたように輝いていた。そして、その輝きの奥に、女たちの微笑みが一瞬だけ浮かんだように見えた。


 それ以来、職人の技はさらに冴え、都中にその名が響き渡った。だが、彼は決してあの夜のことを口にしなかった。ただ、銀を磨くたびに、遠い後宮の女たちの囁きを耳にする気がした。「輝きを、取り戻して……」と。


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