第12話 品川 守
—なにを、間違えていたんだろうか。
品川守(しながわ・まもる)は、車のエンジンをかけながら、呟いた。
冷たい風がフロントガラスに吹きつけ、曇った視界の向こうに、いつもの通勤路がぼんやりと浮かび上がった。
私は、早山農民組合の出身だ。
猪口集落から山ひとつ越えた谷あいの集落。
農家の生まれじゃない。小さな建材屋の三男坊。
農業高校を卒業して、営農指導員として早山農民組合に入った。
栽培知識も、地元への愛着も薄いまま、必死で農家の懐に飛び込んだ。
汗まみれになって田んぼに入り、ビニールハウスで夜明けまでトマトを摘んだ。
あの頃、若かった。ただ、認められたかった。
—農家じゃない俺でも、ここまでやれると。―
十年かかってようやく、少しだけ名前が通るようになった。
ちょうどその頃、庄司さんと出会った。彼は県内各地の営農指導員が集まる勉強会で、マスター指導員として講師を務めていた。
FUサラサが発足して6年が経ち、当時の私は支店長だった。
庄司さんが、組合長に就任した。すぐに動いた。
飲みに誘い、相談を持ちかけ、地元イベントに顔を出し—
取り入るために、どんなことでもした。
幸い、庄司さんも私のことを覚えていて、よくしてくれた。
結果、総務部長、営農常務を経て、専務理事にまで登りつめた。
出世は私にとって呼吸だ。しなければ、死ぬ。
生まれながらにして、ただ息を吸い、吐く。
そこに目的、ビジョン、理念などなかった。
『組合員の夢、組合員の利益、組合員ファースト FUサラサ』
統括会の若造が、立派なビジョンは言葉だけじゃだめだと、本所に支店に、でかでかと掲げろと言っていたな。
バカらしい。
県域合併構想が持ち上がったとき、愕然とした。
十五の農組がひとつになれば—組合長も、専務も、1人になる。
椅子が、消える。私の「呼吸」が止まる。
絶対に、阻止しなければならなかった。
あの日、彼が嶺岡議員を連れて専務室に現れた。
「選果場の評価額を三億円超に引き上げることができないか。そうすれば、補償金が満額支払われる」
なぜ三億円?あとから知った。
―国の通達では、補償基準に"大型農産物流通施設"の特別枠が設けられており、三億円以上の評価額を持つ施設に対しては、別途加算補償が適用される—
山奥にひっそりと佇むFUサラサの選果場に、その価値はない。
それどころか、更新時期にさしかかり、三千万円の設備更新費と改修費の支出さえ、理事会では何度も跳ね返されている。
一瞬、迷ったが、覚悟を決めた。やるしかない。
合併しなくてもいい経営体力。サラサには必要だ。
すぐに設備更新と改修を起案させた。
”六千万円の選果場大改修”は理事会を通過した。
さらに、六車段ボールと「協議」を重ねた。
資材を大量発注し、在庫を水増しする。
その在庫を棚卸資産として計上する。
8月に新ルートの決定、収用施設選定がなされたら、返品処理をする。
9月末監査で必ず棚卸資産は確認される。
六車段ボールにも見返りは十分にある計画だ。
誰も、損はしない。
庄司さんには、必要最低限しか話さなかった。
土谷に、裏工作を任せた。
すべてが、うまくいくはずだった。
―瀬又朔が現れた。
監査で何度か「経営者インタビュー」を受けた。
記憶力が良く、勘が鋭い。そして熱い、まぶしい。
我が組織にも、このような部下がいればと思わせる魅力がある。
最初は舐めていた。
どうせ、統括会の上層部に抑えられるだろうと。
だが、届いてきた。
帳票の矛盾に気づき、ペルソナボックスを通じて内部告発を収集し、六車ダンボールの社長から証言を引き出し、—ついには組合長の手書きメモ入り地図まで。
八方ふさがりだ。―業務改善命令を食らい、マスコミに連日報道され―
業務改善命令は嶺岡の指示によるものだろうか。
嶺岡を連れてきたあの男も、私たちを助ける気などないというわけだ。
—そして、今。
早朝のサラサ本所、無人の応接室にいる。
目の前にはA4用紙と、一本のペン。
『辞職願 品川守』書き上げて、ペンを置いた。
窓の外に朝日が差している。
世界は、ただ明るい。
私に帰る場所はない。実家はすでにない。
農家ではない。土も、田んぼも、ない。
失った。すべてを失った。
—ならば。
静かに、席を立つ。コートを羽織り、専務室を出る。
誰にも会わないように、裏口へ向かう。
河川敷の、人気のないベンチに腰掛ける。
手には、掌に収まるほどの小さな瓶。
静かに開けると、風が吹いた。
遠くで、犬が吠えた。
—ごめんなさい。
誰に言うわけでもなく、小さく呟いた。
最後に浮かんだのは、十八の春、農民組合の面接で震えながら名前を名乗った、あの日の自分だった。
品川守は、何も汚れていなかった。
まだ、何も失っていなかった。
—さようなら。
目を閉じた。
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