第3話 ライバル、という言葉では語れない

 1986年、夏。


 蒸し暑い東京の空の下、代々木第一体育館の前には早朝から長蛇の列ができていた。中山美穂、18歳。初の単独コンサートツアー。その初日が、ここから幕を開けようとしていた。


 楽屋の鏡前、美穂は衣装に身を包み、マイクを握った手をじっと見つめていた。手のひらに、うっすらと汗。緊張で心臓の音が耳の奥で響く。


 (失敗したらどうしよう。歌詞を飛ばしたら……。)


 そんなとき、スタッフが「差し入れです」と手渡した小さな紙袋の中に、一通の手紙があった。


 ──便箋には、少し走り書きの文字。


美穂へ

初コンサート、おめでとう。

あっという間だったね。最初に出会ったときの、あの小さな猫みたいな瞳、いまもちゃんと覚えてるよ。

楽しんできなよ。あなたの歌を待ってる人が、こんなにいるんだから。

応援してる。

きょんちゃんより


 何気ない言葉。でも、それだけで涙がにじんだ。


 小泉今日子、22歳。すでにヒット曲を何本も持ち、CM、ドラマ、雑誌、あらゆるメディアを席巻していた存在。いわゆる「トップスター」。


 だからこそ、メディアは二人を「ライバル」として煽り続けた。

 “可愛い派VS都会派”“中山美穂がキョンキョンに迫る!”

 毎週のように、週刊誌やテレビの情報番組で名前が並べられる。


 だけど、美穂は一度も、今日子を“ライバル”だと思ったことがなかった。


 あの人は、少し先を走る背中だった。

 ときに眩しくて、ときに遠くて。だけど、手を伸ばしたくなるような、あたたかい背中だった。


 コンサートの本番直前。袖に立つと、客席から大きな拍手が聞こえた。


 (大丈夫。あの人が応援してくれてる。わたしはわたしの歌を、ちゃんと歌う。)


 ステージのライトが一気に灯り、音楽が始まった。


 一方そのころ、今日子は自宅でテレビの音を落とし、雑誌の校正に目を通していた。


 「中山美穂、“ポスト小泉”の大本命か──」


 そんな見出しに、苦笑いする。


 (ポストってなによ、って話よね)


 窓の外には、夕暮れの空。どこかで誰かが、夢を叶えようと走っている。


 美穂の瞳を思い出す。


 たしかに、少しずつ大人になってきた。声も、表情も、纏う空気も。あの子は、ちゃんと“自分の道”を見つけはじめてる。


 だからこそ、もう“お姉ちゃん”ではいられない気がしていた。


 (でも、見てるよ。ずっと見てる。)


 そして、必要なときにはきっと、そばにいる。

 ライバル、という言葉で終わらせたくない。そんな関係が、この世にはあるのだ。


 同じ空の下、それぞれの道を歩きながら、ふたりはどこかでつながっていた。


 いつかまた、同じステージに立つその日まで──。


つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る