『サンクチュアリ -ふたりだけの約束-』
湊 マチ
第1話 控室の出会い
1985年、梅雨の終わり。灰色の雲が空を覆い、東京は蒸し暑い午後を迎えていた。
某民放テレビ局の地下スタジオ。蛍光灯の白い光が無機質にきらめく長い廊下。その一角にある控室のドアが、カタンと音を立てて開いた。
「すみません……こちらで合ってますか?」
まだあどけなさの残る声が、小さく響いた。
そこに立っていたのは、中山美穂。まだ16歳になったばかり。事務所に入ったばかりで、テレビ出演はこれが2回目。アイドル雑誌の片隅に初めて載った写真を、クラスメイトが教室で回し読みしていた、そんな時代。
緊張で肩をこわばらせながら彼女が部屋に足を踏み入れると、すでにひとりの女性がソファに腰かけていた。
「合ってるよ。私と一緒らしい。」
雑誌や台本を無造作に積み上げたテーブルの向こう、足を組み、リラックスした様子で微笑んでいたのは、小泉今日子だった。
当時21歳。80年代のアイドル戦国時代を勝ち抜き、すでにトップアイドルとしてテレビにラジオにドラマに引っ張りだこだった。テレビで見るよりもずっと華奢で、でもその目には、キラキラした確信のような強さがあった。
「中山さんだっけ?……じゃ、美穂ちゃん?」
「はい。……あの、よろしくお願いします。」
今日子の前に立ったまま、ぎこちなく頭を下げた美穂。その頬には、うっすらと汗の粒。額に張り付く髪の毛を慌てて手で払うしぐさに、まだ制服が似合いそうな幼さがにじんでいた。
「きょんちゃんでいいよ。」
「えっ?」
「“小泉さん”って呼ばれると、他人行儀でくすぐったいから。“きょんちゃん”で。」
そう言って今日子はふっと笑った。気取らず、飾らず、それでも圧倒的に“画面の中の人”だった。美穂は驚いたように目を見開いたが、すぐに少しだけ口元をほころばせた。
「じゃあ……きょんちゃん、ですか?」
「うん、それでいい。」
クスッとふたり、同時に笑った。
狭い控室の中に、少しだけ空気が緩んだ。
部屋の隅には衣装ラックがあり、鏡の前には明るすぎる照明。換気が悪いのか、汗ばんだ空気がこもっていた。けれど、その息苦しさを忘れさせるような、ほんのわずかな“安心”が、美穂の胸に宿った。
「緊張してるの?」
「……はい。」
正直に答えた美穂に、今日子はお茶のペットボトルを差し出した。
「私もね、最初のテレビのとき、楽屋で泣いたんだよ。」
「えっ……きょんちゃんが?」
「うん。リハのあとにね。“もう帰る!”って言ってさ。スタッフに止められて、泣きながら楽屋に戻ったの。」
「……信じられない。」
今日子は肩をすくめた。
「最初は誰でも怖いんだよ。カメラも、お客さんも、自分の声も。」
その声に、ウソはなかった。4歳上の今日子は、ほんとうに、姉のように感じられた。
「でもさ、目をそらさないことだよ。あのレンズの向こうには、ちゃんと“誰か”がいる。応援してくれる人、気にかけてくれてる人。そう思うだけで、少し楽になるよ。」
美穂はそのとき、初めて“プロの目”を見た気がした。
優しさの奥にある強さ。覚悟。誰にも侵されない場所を持つ人の目。それは、あとになって“サンクチュアリ”という言葉で呼ばれるような、心の奥底にある光だった。
収録の本番が始まるまで、二人は控室でぽつぽつと会話を続けた。
好きな食べ物の話、最近読んだ少女漫画の話、ちょっと気になる俳優の話。気がつけば、美穂の緊張は和らいでいた。今日子の話し方は、年上だけれど対等だった。上からでも、突き放すでもなく、「わたしも通ってきたよ」と、そっと並んで歩くような距離感だった。
本番前、スタッフが呼びに来ると、今日子はふと、美穂の肩を軽く叩いた。
「緊張したら、深呼吸ね。」
「……はい。」
スタジオへ向かう廊下。照明の陰に入った瞬間、美穂は今日子の背中を見つめた。
小柄で、華奢で、でも背中はまっすぐで、歩き方には迷いがなかった。
その背中に、そっと憧れが灯った。
「……きょんちゃん。」
小さく呼びかけた美穂に、今日子は振り向いてウインクした。
「大丈夫。あなたはきっと大丈夫。」
その言葉が、その後、何度も美穂の心を救うことになる。
それは、ふたりの長い友情の、ほんのはじまりだった。
つづく
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