第9話 昭和57年、米国西海岸

 ロサンゼルスの空港に降り立った瞬間、

 岡部誠一おかべ せいいちは、鼻の奥に違和感を覚えた。


 空気の匂いが違った。

 湿度が少なく、排気ガスの質も違っていた。

 アスファルトの照り返しも、日本とは何かが違っていた。


 昭和57年、7月。

 大学の夏休み。

 級友3人での初めての海外旅行だった。


 誠一、中江、村川の男3人組だ。

 渡航先はアメリカ西海岸。

 成田から直行便で十数時間。

 機内では全員ほとんど眠れなかった。


 空港では、背の高い入国審査官が無表情でスタンプを押した。

 それが、人生で初めて見た本物のアメリカ人だった。


 バスツアーに申し込んで、まず訪れたのはディズニーランド。

 ロサンゼルス近郊のアナハイム。


 参加者はほとんどが新婚カップル。

 そのなかに、ぎこちなく混じる男3人組。

 ガイドの日本人女性が、からかうように言った。


「はい、みなさん、こちらが今回唯一の独身若手枠です。仲良くしてあげてくださいね〜」


 笑いが起きた。

 誠一たちは顔を赤くして、手を振った。


 観覧車の上から見た夕暮れのディズニーランド。

 風は乾いていて、ほんのり甘かった。

 バスのなかでは、杏里の「思いきりアメリカン」が流れていた。


 「♪ 素顔のままで 太陽に手をかざすまぶしさを」


 そのままの気持ちだった。

 何もかもが新しく、眩しく、手に取れそうで、手が届かない。



 滞在中、中江の知り合いのアメリカ人宅に泊めてもらった。

 プール付きの豪邸だ。

 誠一は、自分がテレビの中に入ったような錯覚を覚えた。

 庭の芝は刈り込まれ、ガレージにはでかいアメ車が置かれていた。

 家の主は、40代前半の男性。

 小さな会社を経営しているという。


 翌朝、日曜日。


 誠一がキッチンでジュースを飲んでいると、その男性はビジネスバッグを片手に車に乗って帰ってきた。


「ちょっとだけオフィスに顔を出してきたんだ」


「日曜の朝早くに仕事?」と誠一は目を丸くした。

 だが、男性はあたりまえのように笑っている。

 誠一には、その軽やかさが信じられなかった。


 その日の午後、プールサイドで陽を浴びながら、誠一はなんとなく空を見上げていた。

 ここに暮らす人たちは、自分たちとはまったく別のリズムで生きている。

 週末の使い方も、仕事との向き合い方も、すべてが違って見えた。


 この国では、自分という存在があまりにも小さく、無名で、だけど逆に言えば、自由だった。


 その夜、誠一はベッドに寝転びながら思った。

 この旅で、自分の輪郭が少し変わった気がした。

 それが成長かどうかはわからない。

 けれど、世界が広いということを、身体で知ったのだった。

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