7

 龍彦は寝室に戻ったのは、深夜0時を回ってからのことだった。


 カーテンの隙間から道路沿いの街灯の灯りが差し込んでいる。龍彦の鋭い五感なら、これだけの光源があれば、昼間と同じように部屋内を見渡すことができる。


 龍彦は自分のベッドに座った。自分の正面には、静音がこちらを向いて眠っており、安らかな寝息を立てている。


 龍彦はその寝顔を見ていた。伏せられた長いまつげが時折震えるのは、何か夢を見ているからだろう。


――妻、か。


 潜伏中の静音の役回りは、龍彦の妻だった。龍彦が出かけるときは玄関まで見送り、帰れば出迎える。


 家に帰れば、温かい食事が待っている。上手すぎない、家庭の味。食べて、褒めると『妻』が喜ぶ。


 からかうと、怒る。真面目に迫れば、固まってしまう。


 そんな静音を、龍彦は可愛いと思う。突き詰めると、愛おしいと思う。それは、いままで、他の女性に感じたことのない感情。


 それでも、静音の心はよそにある。他の男にあるのだ。


 静音が馴れない中、不安な中でも頑張るのは、その男との記憶を守るため。過去を抱えて生きるためだ。


――俺は、静音の未来になれないのだろうか。


 ふと、そう思い。


 自覚した。


 龍彦はしっかりした形で自覚したのだ。


 今まで冗談で言い続けたこと。本気だったのは、どちらか。


 いつもの軽口の、からかって愉しんでいるつもりだった、それが本当だったのか。


 怒ったり、あきれたり。そんな静音をただ愛でていた自分に気づいた。


 思えば、あの静音の肩に手を置いたとき。あれほどまずいと思ったのは、自分の身勝手で、静音を失う所だった、という意味だったのではないか。


――自覚なんてしなければ良かった。


 龍彦は、ベッドに倒れた。静音の寝顔を見ないように。自分が、不埒な行為をしてしまわないように。



 龍彦は悪夢を見た。


 夢の中で、静音を抱きしめていた。無様なほど、周囲を気にせずに。


 静音の悲しげな表情に、自分の激情を押しつける。


 自身で、静音を壊してしまう夢だった。


 散り散りに風に舞う、静音の破片。手に取ると、柊の葉だった。



 肌にまとわりつく汗に、龍彦は起きた。時刻は夜明けごろ。カーテンから漏れる青い光が、部屋を青く染める。


 隣のベッドを見ると、静音が起きていた。心配そうに、龍彦を見ている。


「うなされていましたけど……大丈夫ですか。お水、持ってきますか?」


 粉々にくだけたはずの静音が無事で、龍彦は安堵の吐息を漏らす。


「大丈夫。水はいいから、ここにいてくれないか」


 龍彦はいつもの作った口調で話せなかった。


 静音はベッドから降りると、龍彦の側に寄ってきた。側机に置いてあったタオルを手に、龍彦の隣に座り、首筋の汗をぬぐう。


「すごい汗です。本当に、具合が悪いとか、無いですか?」


 ベッドが、静音の重みで沈む。その感覚が、龍彦には生々しく思える。


「ごめん。横に座るのはやめてくれないか」


 これが精一杯の言葉。静音の体温を感じる距離に、自分を置いておきたくないと龍彦は思う。


「ごめん、なさい」


「静音ちゃんが、悪い訳じゃない。全部俺の問題だから」


 龍彦は、一人称が俺に成っていることに気づかなかった。


「え、でも」


「静音ちゃん、君は悪くない。悪いのは、俺なんだ」


 龍彦は、両手で頭を支え、肘を膝に付いた。


――夢の幻と、手の届く距離の静音と。


 二つが混じったら、取り返しが付かないと龍彦はうめいた。


 静音の唇を吸いたい。この手で押し倒してしまいたい。


 それを、静音が受け止めてくれたなら、この灼けるような胸の痛みは収まるのか。否。そのようなことはあり得ないのだから、想定するだけ無駄な話だ。


「やっぱり水を頼めるかな」


――今は、静音をここから引き離そう。


 龍彦は、そう判断した。視界から一度消えれば、平常心を取り戻せる、そう考えた。


 静音は二つ返事で台所へ水を取りに行った。



 しばらくして水を持ってきたのは、静音ではなく龍樹だった。


「龍彦兄さん、具合が悪いって?」


 昨夜の徹夜当番は龍樹だったと龍彦は思い出した。台所に立った静音が、龍樹に事の次第を話したという。


「いつもの夢か?」


 いつもの夢とは、守れなかった人の夢。手を差しのばしても、その手が中を泳ぐ、そんな夢のことだ。


「違う」


 静音と過ごし始めるまで、一人で眠ると必ずと言っていいほど見る、悲しい記憶。それも、静音と同室するようになってから見なくなっている。


「じゃあ、静音さんの夢か。……おめでとう」


 なにがだ、と返すと、めでたいだろ、と龍樹は返す。


「龍彦兄さんも、本気になれる相手が見つかったって訳だ」


 龍彦は無言で帰す。それが肯定になったとしても、龍彦にはどうすることもできない。


「ずっと手を出してないから、もしかすると、とは思ってたんだ。兄さんの性格で、本当に大切な娘なら、そう簡単に手は出せないからね」


 龍樹は嬉しそうに笑う。


「何が嬉しい?」


「これで、龍彦兄さんは死ねないな、と思って」


 自分の命を軽んじるところがあっただろ、と龍樹は龍彦に指摘した。


「欲張りな龍彦兄さんが、静音さんを名実共に手に入れる前に、死ぬわけ無いからね。しかも、まだ、静音さんは、それに気づいてない。これは見物だ」


 にやり、と龍樹は笑う。


「適度に協力するよ。そう簡単に手に入らない方が、龍彦兄さんにはいいからね」


「言いたいだけ言えばいい。否定はできない」


「それでいいよ。っと。そろそろ静音さんが心配してるとまずいから、向こうに戻るよ、もう静音さん、こっちの部屋に来させていい?」


「……いや、俺が向こうに行く。龍樹、お前のバイク貸してくれ。頭を冷やしてくる」


 龍彦は、龍樹の返事を聞く前に身支度を整え始める。


――一旦ここを離れないとダメだ。


「構いやしないけど。静音さんには、一言かけて行ってくれよ。静音さん、もの凄く心配してるから」


「……ああ。メットも借りるぞ」


 龍彦は、リビングに向かった。寝室からは、リビングを通ってしか玄関へ行くことができない構造だからだった。


「龍彦さん、大丈夫ですか?」


 リビングには、寝間着姿の静音がいた。食卓の椅子に座り、見るからに不安げだ。


「ごめん、心配をかけたね。夢見が最悪だったんだ。すこし、外に出て頭を冷やしてくるから、龍樹と一緒にここにいて」


 いつもなら、ここで静音の肩を叩いて、安心させるところだ。だが、今の龍彦は静音に触れることを躊躇した。


「悪い夢が移るといけないから」


 肩を叩こうとした手を止めて、龍彦が呟く。


「そんなこと」


 静音は言葉を切る。「そんなことありませんよ」か、「そんなこと気にしないで下さい」か。きっと前者だと龍彦は思う。


「じゃ、少し家を空けるよ」


「いってらっしゃい」


 いってらっしゃいは、「行っていらっしゃい」。帰ってくることを前提とした言葉。


 今の偽りの関係でなく、静音が言う日が来るのか。それを思うと、苦しかった。


「いってくる」


 龍彦は振り向かず、玄関を出て行った。


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