黒の教会

ヰ瀬木独

第一話 悪の聖典

悪の聖典 ①

       一


 雪解けに思いを馳せるほど、玉椿が咲く夜もすがら。曇天に抱かれた満月は潮風を呑んだ銅貨のように錆びれてしまって、尖塔に懸かる薄霧さえ光を騙ることはない。外庭にかれた電灯だけが仄か、陰向かう道に延びている。それは星影のように遥か暗澹に穴を開けて、遠くからでも輝いて見えた。

 ドイツ北東部、ベルリン州ミッテ区。この外庭の傍らに教会の孤影こえいは窺える。


[——St. Waldstein Kircheヴァルトシュタイン聖徒教会

 黒燻くろくすんだ門構えは聖厳せいごんとした気配に陰鬱のインクを塗りかさね、堰き止められた噴水は干涸び、風化の季節を思わせる。翅をもがれた凍蝶いてちょうは剥がれゆく鱗粉の雨をながめながら、とおった花弁に胸を灼かれていた。青年は幾何学樹形トピアリーを横目にしながら煉瓦道をひとり歩いた。

 底冷えを肴にプルタブを傾ける。水面に溶けだした光を掬い、珈琲を啜る。匂える白息は、いつしか乾き冴えた澱となって凍てつく冬の断層に消えてゆく。それは静寂に研ぎ澄まされた孤独感か、あるいは憂鬱にかじかんだんだ虚無感か。缶底かんぞこに沈む、靄がかった黒苦い後味をみしめて、鋭く冷えた唇を拭った。


 土埃に汚れた靴底は深々として消えかかった観音扉の前で止まった。暗に彫られた扉絵は夜目よめが冴えてゆくにつれ、視界のなかでキリストの死相を浮かび上がらせるが、それが不愉快や嫌悪といった負の塊となって青年の喉を塞いだ。


「そろそろ行かないとな」

 見上げた空に声を搾った。


 一一九九年、クリスマス・ミサを報せる晩鐘が今年はやけに耳に障った。


 おずおずと背を丸めて顔を出すと、上唇のあたりで、熟れた果実の酔いと酸味が柔軟剤と混ざり合いながら漂ってきた。

 絹糸にほだされた白い外套、首を吊り下げるロザリオ、瓶詰めにされた祈り。教徒たちは涙袋からわずかばかりの透明を滴らせ、沈黙のなげきに暮れている。

 青年——クラウスはレッドカーペットから足を退いて、窓際にもたれるうちに、その貧相な体躯に目を逸らした。スチームを当て損ねた外套を羽織る、十七歳の青年。珈琲色に香る彼だけが絡ませた指先を上の空へと向けている。

「われらを悪より救い給え、アーメン」

 教皇が手にした聖典が口を綴じると、祈り手は綻んだ。葡萄酒に酔わされた肉体は意思にしたがって弛緩する。

 息はかすか、沈黙を遠く湛えたが、喉にこしらえた独白はひとつやふたつと唇歯しんしを這う。どこかで無遠慮な咳が揺れると、床下に飼われた閑古鳥も巣立って、とうとう赤子の涙が円天井に跳ね返っていった。


 涙ぐむ老婆と親の腕に抱きかかえられた幼児を横目に、クラウスは雑踏をかわして歩きだした。しかし、鼓膜に溶ける声風は濁流となって足元に罅を入れる。喧騒がおぼろげ、刻まれる時針だけが耳に鮮やかな疵痕きずあとを残す。書見台のそばで孤児と修道女が楽しげに笑い合っていた。クラウスの両足は泥濘にしなだれた徒花となって舞台の前で動きを止めた。ついに怪訝な顔つきで声をかけた修道女に、「このまま時が止まればな」と野暮な幻想を語るまで、心は瘴霧に憑かれたままだった。


 聖歌隊クワイアは舞台に足並みを揃え、相も変わらず先導者を待ちあぐねる。クラウスは何度か瞬きをしてから、トムソン椅子に太腿を寄せた。


 哀愁を漂わせたオルガンはモノクロームの楽譜が色づくのを息を止めて待っている。クラウスもまた指揮者を探して教会を見回した。


 円天井は鋭く、夜のわんを突き返しているようだった。その曲線は鈍い光を孕みながら天井画を照らし、砂岩彫刻とともに寄る辺なき敬虔を吸い上げている。吹抜け回廊の壁にはパイプオルガンが鉄面皮を嵌め込んでいる。鉄管はシャンデリアのもとで古びた光沢を見いだし、触れれば冷たく、奏でれば温かみある荘厳で身を包んでくれる。中央には左右十二個ずつ長椅子が置かれ、その中心をレッドカーペットが十字状に敷いていた。入口から祭壇、さらに教会孤児院まで繋がれた赤い繊維は、図らずも、常に誰かの膝で擦り切れている。


 神なんていないだろうに。


 ——神はいない。クラウスだけが有神論を疑う教会のなかでは、今日も形なき尊厳がなおも形を保ち続けている。


 すると、舞台の背後から次々と感嘆の息が洩れ出した。「嗚呼、司教様……」「本当に来てくださるのね」「まさか直々になさるなんて」


 崇敬の眼差しに見送られながら、司教は表に出揃った聖歌隊クワイアに目を向けた。年相応に蓄えられたびんの白髪、富饒ふじょつな恰幅を収めた埃ひとつない燕尾服、首に飾られたロザリオさえ、クラウスには純潔に映らない。

 司教は客席に一礼を配り、喝采を煽る。

 クラウスは外套の袖を捲り、高揚がじきに過ぎ去れば、指揮棒を振り下ろす風が耳を掠めた。




 拍手が鳴り止んでから何分が過ぎたのか。楽譜に倣う視線が捲った袖に逸れたころに、唾液が渇きを知る。指はまだ演奏の余韻に疼いている。


 終わってしまったか。

 嗄れた呟きは物憂ものうげに病んだ空言そらごとに紛れ、頭上に消えた。虚ろな眼は祭壇に据えられた燭台をいつまでも見つめた。

 煙を漂わせながら融けてゆく蝋燭の白。しんと耳鳴る静寂のなかでひと知れずポタと滴る。長椅子には置き去られた空缶。底に乾き、滓になった珈琲の黒。その輪郭はぼやけ、円筒を溶かす。


 眩暈がして目を閉じた。それからというもの、意識は何とも知れない疲弊感に諭されるがまま、上瞼に鉛錘えんすいをぶら下げたように開かなくなった。睡魔に溺れた身をよじり、眠気がハッと冴えたのは、吐瀉物よりも遥かにえた鉄の匂いが鼻腔を覆ってからだった。


 薄眼を開くと——見間違いではない——温く、石畳に蹲る、生きている液体がどこからか溢れ返って、タイルを赤褐色せきかっしょくの浅瀬が染めていた。困惑、あるいは恐怖に駆られた咽頭は悲鳴を衝くも嗚咽を打つもなく、液鏡えきかがみに反射した蒼白い顔色をただ茫然自失としてながめている。その間にも血潮は噴き流れ、どこからか滴り落ちて、タイル上に死の痕跡を散らすのが気がかりだった。


 不吉な感情がどうしようもなく膨れ上がると同時に、全身をむず痒い感覚が伝った。脇腹から膝裏に向かい、腿から踝を抜けて、神妙な生温さに背筋が凍る。それは次第に消え薄れていったが、ああ、クラウスはついに醜く叫んだ。いつの間にか、繋がれているはずの前腕を彼は失っていたからだ。しかし心の上澄みでは勘繰り狂い、動揺に震えているというのに根底では自身でさえ気味悪く思うほどに落ち着てきを払っているのも事実であった。

 引き裂かれた繊維から垣間見えるのは死斑が浮かぶ腕。断面に静脈と骨。微かな鉄分が血生臭く薫るが、葡萄酒にも似た酸味を含んでいてどこか妙だ。


 これは夢か、幻か?

 考えたところで、教会は泡沫に白んだ。生血が乾き、冷たい感触も遠く遠のく。初めからなにもなかったのではないかと思うほどに。


 眼窩がんかに射す光影がぼんやりと眩しい。夢見から覚めた目先では、壇上に置かれた燭台が白煙を漂わせていた。無風をしたためた教会で炎は細く、頼りなげに、ユラリユラと。仄かな灯りが頬に落ちると、幻肢と膚合はだあいが現実と繋がっていく、そんな気がした。

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