15
「たいしたことないんです。お兄ちゃんがいたし。」
ひばりはこともなげに言って、紅茶をもう一口飲んだ。
時市は、兄に名前を与えられたというひばりの言葉をずっと思い返していた。
時市には、自分で捨てるまでもなく名前がなかった。母は時市を生んだだけで一切関わろうとはしなかったし、入れ代わり立ち代わり現れる母の男たちにとって、時市は暴力や性欲をぶつけるだけのサンドバッグだった。名前なんてものは必要とされなかったのだ。
10をいくつか越えたのであろうところで、時市は家を出た。繁華街で声をかけてきた男と寝て、金と当分の家を得た。その男に放り出されたら、また他の男の家に転がり込んだ。そうやって、数年をかけて観音通りまで流れ着いたのだ。そんな生活の中では、やっぱり時市の名前なんか誰も必要としなかった。
観音通りの街灯の下に立つようになり、やっぱり男の家を転々としてなんとか暮らしていたとき、あの男と知り合った。あの男は、時市を自分の家に連れ帰ることはなかったけれど、何度か買い、しばらくすると家を借りてくれた。時市にとっては、生まれてはじめての、自分だけの家だった。喜ぶ時市を隣に座らせ、男はしばらく何事か考え込んでいた、時市は、じっと、男がなにか言いだすのを待った。なにか条件を付けられるのだろう、と思った。家を借りる代わりに、専属の男娼になれ、とか、命にかかわるようなプレイをさせろ、とか。真面目な顔で時市に向き直った男は、懐から出したメモ用紙に、ボールペンで、時市、と書いた。振り仮名も振ってくれた。
『これ、お前の名前。ないと不便だろ。』
なにかささやかな家財道具でも買い与えるような調子だった。時市は、平仮名くらいは辛うじて読めたので、ときいち、と、口の中で何度か繰り返した。嬉しかった。ようやく誰かに必要とされたのだと思った。男が帰っていった後も、何度も練習して、与えられた自分の名前を書けるようにした。ろくな仕事もしてなければ、行政手続きなんかとも縁がない時市には、名前を書く、という機会がそもそもないのだけれど。男が時市を、時市、と呼んだ。時市も、あちこちで名前を名乗るようになった。
やがて、時市も身体が育ち、男相手の商売はしなくなり、おんなを抱いて金を稼ぐようになった。それでもあの男は、時々やってきては、時市を抱く。自分がその訪れを待っていることを、時市は否定できない。ようやく誰かに必要とされた、なんていうのはただの一時的な思い込みに過ぎないと、さすがにもう分かってはいるのだけれど。
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