観音通りにて・妹

美里

 そのとき時市は、死にかけていたのだ。女に腹を刺されて。

 女に刺されるのは、はじめてではなかった。ただ、こんなに深く、しかも急所を狙って、刺されたのははじめてだった。死に直面したのもはじめてではなかったけれど、以前の経験は昔すぎて記憶は薄れはじめており、迫りくる死を新鮮に感じていた。

 雨が降っていた。花散らしの雨だ、と、アパートのドアまでたどり着いたはいいが、出血しすぎたせいだろう、指がもう持ちあがらなくて、鍵を開けられず、ドアに寄りかかって崩れ落ちながら、時市はそんなことを思っていた。

 春に、いい思い出はない。以前女に肩を刺されたのも春だったし、もっと前、死に直面したときも春だった。春は出会いと別れの季節、なんていうからか、時市を養っていた女が我に返って時市を追い出すのも、大抵春だった。

 もう、ドアに寄りかかっても、座った姿勢さえ維持ができない。時市は、そのまま冷たいコンクリートに横倒しになった。腹の傷を押さえて、出血量を確認しなければ、と思うのに、やはり、もう手が動かない。

 ここまでか。

 時市は目を閉じ、刺された直後は焼けるように痛んだ傷口が、もうまるで痛まないことに恐怖と安堵の両方を覚える。

 痛くない。もうこのまま、なにも痛くない世界へ行けるのだろう。

 長く細い息を吐いた時市が、そう覚悟を決めたのと同時に、頭上から声が降ってきた。

 「なぁに? 酔っ払い? こんなところで迷惑なんだけど。」

 可憐、という言葉がすっかり当てはまるような、若いおんなの声だった。すっかり日が暮れている上に、路地裏のこのアパートには街灯の灯りも届かない。おんなには、時市の腹から流れている血が見えていないのだろう。

 ごめん、跨いでって。

 そう言いたくて開いた口から、ごぼごぼ、と鈍い音とともに血の泡があふれた。そこに至って、声のおんなは時市の異変に気が付いたらしい。はっとしたように息を飲む気配がした。 

 「救急車。」

 数秒の沈黙ののち、おんなが我に返ったように呟く。もっともなその発言に、時市は辛うじて首を左右に振った。救急車を呼ばれてしまえば、腹を刺したおんなのことも、知らぬ存ぜぬでは通せないだろう。それに時市は、国民健康保険の枠内にもいなかった。

 やめて。

 なんとか唇は動いたけれど、出てたのはやっぱり、血の泡だけだった。

 「なに?」

 おんなが時市の傍らに膝をつき、顔を覗き込んできた。長い黒髪と、白い肌。表情は、暗すぎて確認できない。ただ、おんなにはどこか呑気な雰囲気があって、時市のためにすぐさま救急車を手配するような勢いは見られなかった。


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