世良雫音は楽しみたい。
至璃依生
世良雫音は楽しみたい。 - ある夏の駅にて -
青い空。それと青い海が、眼前にどこまでも広がる。そんな晴々とした絶景が見える駅のプラットフォームに設置された、年季のあるベンチ。そこに、俺のクラスメイトである
七月一日。世間では夏休みが着実に近づいており、それが例え一ヶ月ほどの自由だったとしても、その喜びは今からですら隠しきれず、待ち遠しい、早く来いと、生徒たちは今日も嬉々として帰路につく。そんなキラキラとした彼らを他所に、俺は今頃になってもそんな周囲とは少しも馴染めずにいたので、他の皆とは少し時間をずらして帰宅する。それは、雫音も同じだった。コイツも人付き合いがなく、端的に言えば俺と同じぼっちだった。でも、雫音は意図的にそれをやってるような感じがある。だから、正確には俺とちょっと違うタイプのぼっちだ。
まぁどちらにしろ、互いに人の輪に入らないもの同士、何か思うところがあったのか、彼女はある日の下校時に、駅で一人電車を待っていた俺に話しかけてきた。それからというもの俺達は、いつも帰りの電車が来るまでの間だけ、こうしてベンチに並んで座って話し合う仲となる。今日は俺が所用があって先生と話していたので、ほんの少し遅れて駅に到着する形になった。駅構内には人がまばらに居て、その奥のベンチに雫音はいた。
「本当、今日は清々しいほど、青い空。やっぱりこんな空模様には、憎悪に満ちた人間の悪意が、とてもとても似つかわしい」
よう、と挨拶一つ。そのまま彼女の隣に座り、手持ちのペットボトルの水を何口か飲み始めたと同時。すれば、なんか急に物騒なことを言い始めたクラスメイトを、俺は怪訝な顔で見やる。そこには姿勢正しくベンチに座り、その膝下には紺色のレザー仕様のブックカバーが付けられた文庫本を開き、それを読みながら涼しく微笑む雫音の姿。普段読んでいる本のジャンルは前に聞いたことがあるが、内容は主にミステリーだそうだ。
「曇天とか、雨模様じゃなくてか」
「そう。それは、こんなにも青い空」
彼女の今の一言で、俺の脳内にある光景が思い浮かぶ。青空の下で、誰かをナイフで刺し殺し、その返り血に塗れながら笑う、雫音の姿。まぁ確かに、こんなにもすっと想像出来てしまうくらいには、青空と鮮血というものは似合うといえば似合っていた。共に鮮やかさを感じられる属性を持っているからだろうか。それは、こんなことを言い出した雫音も含めて。
「ね、そう思うでしょ?」
そうだな、と俺はまた水を飲みながら適当に相槌を打つ。それを受けて雫音は、本のページを一枚
すると雫音は、その本から目を離さぬままに問うてきた。
「ねぇ。次の電車で、この駅に誰が降りてくると思う?」
にこり、とした口元を崩さず。さも、分かって当然といった口調で。
俺は思わず、はぁ、とこれまた怪訝な声を出す。
「次って、今からやってくる電車のことか?」
「そう言ってるじゃない」
「いや誰だよ、知るかよ。分かるわけねぇだろ」
しかし雫音は淡々と答えた。
「そうかな。君なら答えられると思うけど」
意味が分からない。不特定多数が乗車する電車から、どこぞの誰かが降りてくるのを言い当てろ。そんなもの、どうすれば分かるんだ。出来やしないだろう。
「問題にもなってないぞ。当てずっぽうでも無理だろ」
「ちゃんと問題になってるよ。さぁ、どうぞ?」
「んな、無茶苦茶な」
というわけで。俺は、あとわずか数分で到着する電車に乗ってくる「誰か」を言い当てるという難題を答える羽目になった。
ヒント無し。糸口も無し。今、この状態から推理しろ。だから俺は周囲を見渡してから、雫音をまじまじと見てみた。辺りには次の電車を待つ乗客がまばらにいる。雫音は相変わらず読書をしている。それだけ、以上。さて、どうしたもんか。
――――それでも俺なら、答えられるってか。
「……あぁ。だったら、まず一つ目だ。俺は今日、用があって少し遅れて駅に着いたが、お前は先に駅にいたな。だからその本、本当にお前のか?」
「というと?」
「確かにいつもお前はここで電車を待ちながら読書しているが、今日に限ってはその本がお前の私物でない可能性がある。この駅に俺より先に到着して、その上「問題になってる」って話なんだから、これ見よがしに読んでるその本も怪しいでしかないだろ。多分だがお前、その本、この駅で拾ったな?」
「そうなの。善意で拾ってね。それで試しに中を読んでみたら、内容がとても面白くって」
「そうかい。なら二つ目。それ文庫本サイズだけど、その中身、小説とかじゃねぇだろ」
「へぇ、なんで? 見てもないくせに」
「人が読書してる時に横から覗き込む邪魔なんてしたくねぇよ。それにレザーカバーで表紙が見えねぇしで、確かに俺はその内容を確認できてない。それでもお前が持ってるのは、恐らく小説じゃない。俺の予想通りなら、文庫サイズのノートだ。文庫本ノートとかいって、でかいメモ帳みたいな感じで、よく量販店で売ってるだろ。それに、実際に文庫本にも使えるカバーが付けられてんだ」
「なんでそう思うの?」
「じゃあ仮に、お前が持ってるそれが、本当は小説だったとして。お前、それを善意で拾ったんだろ。だったらなんで少しは周囲の人達から落とし主を探そうとしない。お前はそうやって、その拾った小説の内容が面白ければ、盗むようにしてまで相手を探さずにずっと読み込み続ける、そんな良い性格してる奴だったか?」
「違うかなぁ」
「だろうな。いくらお前でも、それが小説なら落とし主を探すだろうよ。でもそうしなかった。そんなことする必要がなかったんだ。だってお前が拾ったそれは、そうやって中身を確認してみれば、お前ですら簡単に誰のものだか見当がついてしまうほどの物だったんだからな。……今日もベンチで読書してるなと思ったが、実際は違った。今、お前は落とし主に返すために、その本をひとまず預かってる状態なんだ」
「随分と言い切るね」
「じゃあなんで、今日は急に「次の電車で、誰が降りてくるか当ててみろ」なんてことを言い出す? そんな問題を出すんなら、お前は当然その「誰かという答え」を知ってなきゃいけないだろうが。だからこんな問題を思いついたんだろ、どうせその本の落とし主が誰だか分かったもんだから」
「なら、つまり?」
「つまりは。その本がもし小説だったら、誰のものかなんて見当がつかん。だけどその本が、もっとプライベートな、個人的な要素が強いものが書かれていたメモ帳のような――――さっきも言った文庫本ノートみたいなものだとするなら、この問題の答えは、大体察しがつく」
「じゃあ、その答えは、なぁに?」
「次の電車で降りてくる誰かってのは、お前が拾ったそのノートの持ち主だ。それもウチの学校の生徒だろ。なんならクラスメイトと言っても良い。俺と同じくらい人付き合いが無いぼっちのお前が、誰のものかが分かったってことは、せめてそれくらい身近な人間くらいしかいねぇだろ」
「はい、正解」
と、雫音はその本を持ち上げ両手で開き、俺へと躊躇いなく中身を見せてくる。本当は他人の秘密みたいなもんを見てしまう後ろめたさあったが、答え合わせのために、仕方なくほんの少しだけ見ることにした。そしてやっぱり、その本は個人的なものだった。文庫本ノートなのも正解だったし、その個人的な要素――――、つまりこのノートの持ち主が描いたのだろう、スケッチが描かれていた。人物画だ。
構図としては、どこかの教室らしきところで、窓際の席に座って、外の景色を頬杖付いてずっと眺めている、誰かも分からない男子学生の後ろ姿が描写されていた。
「こんな感じの絵が、他のページにも何枚も描かれてたの。それが、本当に面白くって」
雫音がノートを閉じて膝に置き、さっきも聞いた「内容が面白かった」という感想をもう一度伝えてくる。相当ツボに入ったのだろうか。こいつの感情の起伏は、一見平坦に見えるから、そこらへんの機微が掴みにくい。
「ところで、思わず正解って言っちゃったけど、このノートの持ち主は誰かは分かったの?」
「ウチのクラスでそんな絵を描くっつったら、美術部の小宮ぐらいだろ」
小宮。
「へぇ。君って私と同じくらい人付き合いない割には、このノートの持ち主を、推測からでも言い当てられるんだね」
「お前が、意味深で怪しげな問題にしてくれなかったら気が付かなかったよ。それを代わりに俺が拾ったとしたら、誰かのスケッチブックだな、くらいにしか思えなかったさ」
「じゃあ、そんな意味深で怪しげな問題が、逆にヒントになったんだね」
「そんなとこだ」
「じゃあやっぱり、これは問題だね」
「あぁ? 問題って。もう終わったろ、この話は」
すると、俺が言葉を言い終える前に、踏切の警笛の音が聞こえた。それからまもなくして、プラットフォームに電車が到着する。
甲高くも鈍いブレーキ音が響き、緩やかに電車は停止する。車内には数十人の乗客がおり、その内の数人ほどが降りてくることだろう。外から窓越しに車内を見れば、ウチの制服を着た女子生徒が一人、どこか焦ったように立ち上がり、扉の前に小走りで寄ってきた。そして乗車口が開いたと同時、その女子生徒はすぐに駅に降り立ち、周囲を見渡し始める。もちろん、その女子生徒は、想像通り、小宮だった。
それを見て、雫音が膝下に置いたノートの上から、両手を重ねる。そしてそのまま何も知らぬ存ぜぬと言った顔で、微笑み崩さず、眠り始める。……こいつ、マジか。ノートを両手でわざと隠してる。あと話しかけにくいように、わざと狸寝入りしている。小宮に対してガン無視を決めやがった。
俺が面食らってると、小宮が俺達に気づく。というより、雫音の膝下にある、あのノートに気づく。良かった、気づいてくれたか。あぁ、でもなぁ、雫音は何でか知らんが、小宮を無視してるんだよ。これどうしよう。と俺は若干気まずい空気の中、とりあえずペットボトルのフタを開けて、この状況から目を逸らすように、水をそれとなく飲んでいく。
「世良さん、だよね」
と、ここで小宮。一応、俺も居るんだけどな。
「それ、もしかして、私の」
と、またしても小宮。しかしその声は絞り出すようなもので、震える人差し指で、雫音の膝下のノートに指を指す。
「こんにちは、小宮さん。これはね、さっきこのベンチの下に落ちてたから拾ったの」
それは本当のことなのだろう。雫音は静かに目を開いて小宮を見て、自分が拾った事実を伝えながら、座った姿勢のまま、ノートを小宮へと差し出す。
「貴方ので、良いのね?」
その所作に、どことなく圧があるのは、気のせいだろうか。
「わ、わわッ、ベンチの下?! ってかそう、それ私のッ!」
と、小宮は雫音から取り上げるにしてノートを受け取る。顔は真っ赤で、どうやら事情を察してしまったようだ。俺達が、僅かなりとも内容を読んでしまったことを。
「げ、芸術部だから、人体とかの模写とか書くのは当たり前でッ。あと私だって作品とか展示するから、こういうのとかも見られて恥ずかしいもんじゃないけどさッ。でもやっぱり個人的な観点からすれば、こういう練習がてらに描いたラフっていうか、それを誰かに見られるのはちょっと恥ずかしいかなぁッ!」
と、小宮は焦りながら捲し立てる。まぁ言いたいことは分かる。小宮は主に作品を作るのだから、最終的には衆目に発表するのだが、でもその過程や練習中の自分を見られるのは恥ずかしい。なんにも不思議な話じゃない、そういう人だって世の中にはごまんといるだろう。
「誰にも言わねぇよ。悪いな、持ち主の名前とかあるかと思って、軽く確認しただけだ。明日には記憶から抜けてるから、心配しないでくれ」
「し、信じるよッ。あ、でも作品は今別で制作してるから、完成したら文化祭とかで発表するから、その時はよろしくお願いしますッ」
「あいよ。楽しみにしてる」
そして俺達は、小宮と入れ替わりに、停車した電車に乗り込んでいく。小宮は良かったぁ、と大事そうにネタ帳を抱きしめていた。そういえば小宮は今乗ってきた電車からして、俺達とは反対方面に自宅があるらしい。だから、そのまま一緒に電車には乗ってこなかった。
はぁやれやれ、と俺が空いていた座席に座ると、すれば雫音がほぼぴったりと、俺の隣にくっついて座ってきた。現在、車内はかなり空いているのに、何故か雫音が座ったのは、こうも俺の真隣である。確かに乗る電車は一緒だが、こんなにも近づいて乗ってくるのは、今日が初めてだ。いつもは互いに乗車すると、雫音はそのまま離れていく。いつも帰りの電車が来るまでの間だけ、ベンチに並んで座って話し合う仲であった俺からすれば、そこそこ驚いた。
なんなんだ、と俺が今日、三度目の怪訝な顔を雫音に向けていると、こいつは真っ直ぐ向いて、静かに微笑んでいた。何を見てる、と俺がその目線の先を追うと、そこには、車窓越しにこっちを見て、呆然としている小宮の姿があった。
電車が動き出す。小宮はその愕然と立ち尽くした姿勢のまま、俺達から目を離せないように、視線をずっと釘付けにしてきた。なんだろうあの空気、なんか俺やらかしたかな。いや、そんな事はないはずだが。
「ほんと、面白い」
しかし、対して雫音はといえば、どうにもこの状況がまだ面白いようだ。やっぱりなんかツボに入ってる? さっきからずっと面白がってるよな、コイツ。だとすれば基本、雫音は物静かなタイプだから、じゃあこれがコイツの、いわゆる馬鹿笑いみたいな感じなのかもしれん。
と、俺が世良雫音という少女の感情表現に一つの学びを得ていると、するとその当の雫音から、ふとした一言を聞いた。
「いい天気だね」
いい天気。俺は、今度は背後の車窓へ振り向いて、外の景色を見やる。確かに、今日はいい天気だ。青い空。それと青い海が、眼前にどこまでも広がる。そんな晴々とした絶景が見える。
「しばらくは、こんな天気が続くよ」
へぇ。と俺はまた、もう今日で何度目かの相槌を打った。まぁ、曇天や雨模様よりかは、幾分か過ごしやすいか。暑いのはあまり好きじゃないんだが。
ところで、そんな「いい天気」と言った雫音はといえば、俺のように窓の外を見ずにいた。ぱっと見、姿勢良く前を向いたままで、あの微笑みのまま、じっと座っている。まるで、さっきの窓越しに見た小宮の姿を、もう見えなくなったというのに、まだその目で見ているかのような雰囲気だった。
あ、ちょっと分かったかも。さっきのあの小宮の呆然模様って、もしかして俺が原因なんじゃなくて、実は雫音のほうと何かあったんじゃなかろうか。まぁその何かというのが分からんが、でも案外、実は小宮と雫音は、俺が知らないところで仲が良かったりするのかもしれない。さっきのやりとりも、そんなもんのアレなんだろう。なんだ、コイツもクラスメイトくらいなら、そこそこの関係は築くんだな。知らなかった。
そして、後に。その雫音と小宮の両名は、この日を境に、二人してよく話す関係になる。なんか仲良くなれて良かったね、と俺は相変わらずとぼっちのままで遠巻きに見てたのだが、でも何だかどことなく二人の間に険悪なムードが見え隠れしてんの、あれ何なんだろうな。まぁいいか、それは俺の預かり知らぬ話だ。
何があったか知らないが、故人曰く。喧嘩するほど仲が良いってことなんだろう。
了
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