第5話 幼体

口の中に入れると、ほんのわずかに金属のような味がした。

液体は常温だった。喉を通ったあと、腹の奥にひっそりと沈んでいく。


他の訓練生たちも、静かにカプセルを飲み込んでいく。

特に声は出ない。皆、黙っていた。紫音も同じだった。


何かが変わったかと問われれば、何も変わっていない。

目を閉じて、体の内側を探ってみても、特に異常はなかった。


だが、数分もしないうちに、部屋のあちこちから呻くような声が漏れ始めた。


「……っつ、熱い……!」


「な、なにこれ……身体の中が、燃えるみたい……!」


一人が言い、すぐに別の声が重なった。

うずくまる者もいれば、額を押さえる者もいる。

誰もが明らかに何らかの“変化”を感じ取っていた。


そして、それは目に見える形になって現れ始める。


まず、皮膚の質感が変わった。乾いた布を薄く一枚かぶせたような、ザラついた光沢。

次に、爪が長く鋭くなった。牙も少しずつ伸び、唇からのぞく者もいた。


「紅核器が反応していますね」


梶が静かに言った。言葉の端に、確かな手応えを感じている様子があった。


だが、紫音の身体には、何の変化も起きていなかった。

血流も、心拍も、感覚も、すべてが平常のままだ。


左手の指先をこすってみる。

柔らかいままの人間の皮膚だった。爪も牙も、通常通り。


どう見ても自分だけが取り残されていた。


「……あの、俺だけ、何も起きてないんだけど」


そう言って立ち上がると、梶がすぐに反応した。

資料を手にしていたが、それを横に置いて近寄ってくる。


「まったく、ですか?」

「うん。体温も平常だし……感覚も特に」


「そうですか……不調かどうか、現時点では判断できませんね。適応が遅い体質の方も、まれにいらっしゃいます。もうしばらく様子を見ましょう」


梶は穏やかに答えた。

声に焦りはなく、確認作業のようだった。


紫音はひとまず席に戻った。


その間にも、他の訓練生たちは次の段階へと進んでいた。

梶が簡単な説明を加える。


「皆さん、変体の初期段階では“紅刃(こうじん)”と呼ばれる器官が形成されます。これは吸血鬼が血を採取するために持っている硬質器官の応用です」


言いながら、指先でタブレットを操作し、壁面モニターに解剖図のような図解が表示される。


「本来は吸血のために進化した構造です。何もしなければ、牙や爪といった部位に自動で現れますが、慣れてくると任意の場所に展開することも可能です」


図には腕や肩、背中などに現れた紅刃のパターンが示されていた。

どれも刃のような形状をしていたが、大きさや材質、発色には個人差があるようだった。


「ただし、注意点として――形成できる紅刃の“総量”には限界があります。最初のうちは、一か所に集中して出すのが基本となります」


教室内では数人がそれを試していた。

指先から小さな刃がにょきりと突き出す者、肩から槍のような突起を伸ばしかけてうまく制御できずに転倒する者。

初期にしては、どれも上出来だった。


紫音はただ、それを見ていた。

何も起きない自分の手を膝の上に置いたまま。



  * * * * * *



一時間ほど、紅刃の扱い方についての講義が続いた。

紅刃の構造、意識の集中方法、危険性。梶の声は穏やかで、丁寧だった。

けれど、紫音の身体には、終始何の変化も現れなかった。


視線は向けられない。周囲は皆、最低限の変形を果たしていた。

手の甲から刃を伸ばす者、口元から牙を覗かせる者。

紫音の指先は、ただ温度を保ったまま、指のままだった。


講義が終わると、そのまま解散となった。

訓練生たちは三々五々に退出していく。

紫音が席を立とうとすると、梶が静かに声をかけてきた。


「浅野さん、少しだけ、よろしいでしょうか」


語尾まで崩れのない敬語だった。責めるような響きは一切なかった。

けれど、目線は真っすぐで、どこか探るような気配があった。


梶に案内され、施設内の奥へと進む。

無機質な廊下を抜けてたどり着いたのは、コンクリートに囲まれた訓練場だった。


天井は高く、壁にはいくつもの窓。そこからは、隣接する建物のガラス越しに、室内の様子が見える構造になっていた。


「ここは、本来なら次の段階の訓練に使う場所なのですが……」


そう言いながら、梶は紫音に新しい変血のカプセルを差し出した。


「もう一度だけ、試してみましょう。今回は、少しだけ強引な方法になりますが」


少しだけ、という言葉の使い方に迷いが見える。

紫音は何も言わず、それを受け取った。先ほどと同じ赤い液体が、小さな筒の中に揺れていた。


梶が無線で何かを指示すると、訓練場の反対側のドアが開いた。

靴音と、金属製の車輪の軋む音。


押し込まれるようにして運ばれてきたのは、小型のストレッチャーだった。

その上に、何かが横たわっている。


それは――ネズミに似ていた。けれど、明らかに違った。


 体長は六十センチほど。全身がうっすらとピンク色に覆われ、光沢のある皮膚が蛍光灯の下で鈍く光っていた。

 耳だけが異様に長い。ウサギのような、柔らかな毛に包まれた器官が、ぴくりとも動かないまま垂れ下がっている。


 それは、眠っていた。いや、眠っているように見えた。


「重界由来の生物です」


 梶の声が静かに背後から落ちた。


「正確には――吸血鬼たちの眷属、いわゆる“血獣”のベースとなる存在の一体ですね。私たちは便宜的に“幼体”と呼んでいます」


 紫音は目を細めた。

 皮膚の下でかすかに動く筋肉の動きが、ただの動物ではないことを伝えていた。


「重界は、我々の世界とは位相の異なる反転領域――空間のひずみが生む裏面構造です。吸血鬼やその眷属である血獣の出自も、この世界に由来します。こいつらは、重界に自然生息している生物の中でも、吸血鬼の血に反応して変異する種。まだ血を与えられていない段階のものを“幼体”と分類しています」


 梶はスーツのポケットに手を入れたまま、ゆったりとした口調を崩さない。


「本来は眷属化研究の素材として利用される存在ですが、今回は少し違う使い方をします」


 紫音は無言のまま、梶を見た。


「戦ってください」


 沈黙が落ちた。


「もちろん無理強いはしません。ですが、もしあなたの中にヒル因子が存在するならば、強いストレス――恐怖や敵意、殺意のような極端な感情に触れることで、紅刃の顕現が引き起こされる可能性があります」


 重界の生物と真正面から対峙するという言葉に、紫音の胸がわずかに高鳴った。戦う――その言葉に反応するように、手足の血が逆流するような感覚が生じる。


「ご安心ください。施設内の監視は万全ですし、何かあれば即座に止めます。」


 梶が軽く笑った瞬間、ガラス窓の向こうにうっすらと人影が揺れた。

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