第3話 誘い

吸血鬼の首が落ち、動きが止まった。

断面から煙のようなものが噴き出していた。人間の血液とは違う、もっと重い液体の蒸発。


紫音はその場にしゃがみ込み、呼吸を整えながら周囲を警戒していた。

数秒後、足音が二つ近づいてきた。振り向くと、慎とその後輩が小走りで戻ってきていた。二人とも無事のようだ。


「紫音ッ、大丈夫か!? っつか……」


慎が声を詰まらせ、視線を吸血鬼の死体とその前に立つ男に移す。


白の戦闘服、赤い帯、白鷺総研のエンブレム。

肩まで流れた黒髪と、表情に浮かぶ軽薄な笑み。

男は、指先で煙草を弄んでいた。


慎が口を開く。


「し、新藤葵……!? 日本最強の、ヒル……」


名前が出た瞬間、紫音は反応を返さずにそっと男を見つめた。


「あー、バレた? まあ隠してないしな」


男――新藤葵はあっさりと認めた。

新藤は軽く伸びをして、周囲を一瞥する。


「まだ三匹残ってんだよな。手間かけさせやがって。おまえら、ここから先は見学禁止だ。避難路、使え。真っすぐ南、五分で人がいるとこに出る」


慎が思わず一歩踏み出す。


「で、でも俺たち、せめて――」

「無理。ヒルじゃない奴がいても邪魔だし、ヒルでも今のお前は足手まとい。帰れ」


言葉ははっきりしていた。容赦もなかった。

慎が口をつぐむ。

紫音は、一言だけ発した。


「……助かった」


新藤は肩をすくめた。


「気にすんな。俺は仕事してるだけだ。あとは任せろ」


そう言い残して、路地裏に消えていった。

 


     * * *


 

それから十分後。

新藤は火薬のにおいをまとって戻ってきた。

服は焦げていたが、怪我はなさそうだった。


慎たちはすでに避難路を進んでおり、現場には紫音だけが残っていた。


「残ってんのか。命知らずだな」

「逃げようとは思ったんだけどな。足が勝手に止まってた」

「ふーん」


新藤は紫音の顔を一瞥し、手にした水筒を差し出してきた。

紫音は受け取って一口だけ飲む。


「おまえ、訓練兵か? どこのやつだ?」

「いや。どこにも入ってない」

「マジかよ。じゃあ何だ? 勝手に前線出てんのか?」


紫音はかすかに笑う。


「好きで出張ってきたわけじゃない。たまたま巻き込まれて、たまたま生き残っただけ」

「ふーん、そんだけ動けんのに? ヒル登録してねぇの?」

「こっちは“黄金の血”なんてシャレたもん持ってんだよ。紅核器には嫌われてる体質でね」


新藤の表情が一変した。

数秒、無言のまま紫音を見つめ、それから口の端をわずかに持ち上げた。


「……お前か」

その声には、妙な重さがあった。

紫音が問い返そうとするよりも早く、新藤が言った。


「時間あるか。ついて来い」


その背中は、既に歩き出していた。




タクシーの窓越しに、ぼんやりと流れる街灯の明かりを眺めながら、紫音はあの吸血鬼の顔を思い出していた。

首を跳ね飛ばされた瞬間の、表情すら動かさなかった顔。

まるで、生きていなかったものを止めただけのような、奇妙な違和感が残っていた。


助手席でくつろぐように座っていた新藤が、煙草を口にくわえたまま言った。


「……もうすぐだ」


紫音は特に答えず、ただ窓の外に視線を戻した。


車はやがて高層ビル群の中の一棟へと滑り込む。

自動ゲートが音もなく開き、施設名が浮かび上がる。

白鷺総合研究所 本部技術棟――国家契約を持つ吸血鬼対策企業の一角。


建物内に入ると、空気が変わった。静かで無機質な気圧。ロビーから奥へと誘導されると、エレベーターで最上階まで運ばれる。


防衛省との共同プロジェクトも多数抱える民間研究機関の中心核。その中でも、ヒル技術の最先端がここにある。


施設の中は無駄がなく、無機質で静かだった。誘導されるままに進むと、広めの応接室のような部屋に通された。既に一人の男が待っていた。


白衣、眼鏡、年齢不詳の中年男。

髪は綺麗に撫でつけられており、静かな目をしている。名札には「技術局長 菊田」とあった。


「どうも。初めまして、浅野紫音くんだね」


「……ああ」


「突然の話で戸惑っているかもしれないけれど、結論から言おう。君のようなRh null型に適応可能な紅核器が、我々の元に届いた」


紫音は、咄嗟に理解が追いつかなかった。

目が動き、声がかすかに詰まる。


「そんなの、見つからないんじゃ……」

「珍しいのは確かだ。でも、別に不思議な話ではないよ」


菊田は静かに笑った。科学者というより、教師のような口ぶりだった。


「厳密にはヒル化処理による内部組織の変化によって対応しているが……簡単に言えば、吸血鬼にも血液型がある。そして、人間側のものと“対応関係”がある」


紫音は、目を細める。


「対応関係……」


「君の血は特殊だ。誰にでも輸血できるが、君自身は“数億分の一”の全くの同型からしか輸血を受けられない。つまり、君が臓器をもらえる相手はほとんどいない」


「……それってつまり、紅核器も“合う相手が少ない”ってだけの話だと?」


「そう。臓器拒絶が起きやすいというだけで、適合不能ではない」


何でもないことのように言ったが、それはきっと、奇跡のような確率だ。


「提供してもらえるのか、その紅核器を」


「ああ、提供する。だが条件がある」


菊田は立ち上がり、書類を一枚差し出す。


「君を、白鷺総研の正式所属戦闘員として登録する。そして術後は、戦闘データや身体変化の記録への協力を義務とする」


簡潔だった。逃げ道はない。だが、紫音には願ってもない話だった。


手術を受けられて、さらに戦闘員にまで。

何か裏があるのではと疑うほどだった。


しかし遅れて別の迷いが生まれた。


あの戦いで感じた、喉奥の渇きと焦がれるような欲望。

言うべきかどうか、少しだけ悩んだ。

だが今口にしたところで、意味があるとは思えなかった。


「……わかった。条件、飲むよ」


返事は短かった。


「承諾、ありがとう。手術の段取りは明朝までに連絡する」


口元に浮かぶ笑みは、穏やかだった。


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