ヒル

藍原 透

プロローグ

コンクリート打ちっぱなしの廊下が、足音ひとつすら反響させないほどの沈黙に包まれていた。監視カメラの目が、交差するレーザーのように天井から部屋を見下ろしている。

午前三時。施設はまだ“夜”のままだ。

「今夜で終わる。あとは、経過を見るだけでいい」

実験主任の男が、医療用手袋を音を立てて外しながら言った。その目の奥に、慈悲もためらいもなかった。ただ、結果という名の数字にしか興味がない科学者の目だった。

隣の無菌室では、小さな兄弟が二人、ガラス越しに並んで寝かされていた。上の子は五歳。下の子は三歳。点滴と、奇妙な形状のチューブが彼らの腕や背中に刺さり、無機質な装置へと繋がれている。

「Rh null型……。やはり兄のほうが本命だ。遺伝的な変異率が異常に高い。紅核因子との初期適応も予想以上だ」

ガラス越しにデータシートを確認していた別の研究者が、興奮気味に呟いた。

「弟の方はどうか?」

「異常値は出ているが、因子の定着率が低い。内臓の一部に負荷反応が見られる。予後次第では、何らかの神経症状が残る可能性もある」

「構わん。そもそも主対象は兄のほうだ。弟は副次的データのために一緒に保護しただけだ」

主任の声は冷たかった。弟にとっては命に関わる情報であっても、彼にとってはただの参考値でしかない。

ガラスの向こうで、兄がうっすらと目を開けた。かすんだ視界の中、弟の姿を探すように視線が泳ぐ。眠っている弟は、まだ目を覚まさない。ただその胸はゆっくりと上下していて、生きているという事実だけが唯一の救いだった。

(……となりに、いる)

兄はそれを確かめたかった。手を伸ばすが、拘束と薬剤により、すぐに力尽きた。

部屋の外では、若い女性研究員がわずかに眉を曇らせた。

「このまま……この子たちは?」

「通報が入る頃には、もう誰もいない。記録もデータも、完全に消える」

主任が笑った。その声が、死よりも冷たく響く。


そして数日後――。


火災によって焼け落ちた地下施設の跡地から、二人の子供が保護された。外傷はなく、生命反応も安定していた。兄のほうは記憶を失っており、弟には原因不明の体調不良が見られたが、意識ははっきりしていた。

その場所がどこだったのか、誰が実験を主導していたのか――事件は一切記録に残ることなく葬られた。

ただ一つ、血液データだけが極秘裏に移送され、その後の「計画」に転用されることになる。

少年の中で、何かが芽吹いていた。

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