記憶喪失③

 姫美子は人の記憶を映画のフィルムのように見ることが出来る。相手に話しかけることで、目的の記憶に一瞬でたどり着くことができる。だが、今回、相手は記憶喪失だ。あの日に遡って、失った記憶を確かめて行くしかない。

「あの日、あなたは仕事を終えると、彼と一緒に帰宅しようと、彼の会社に向かった。そうよね?」

「はい・・・」

 女性は寝ているようだが、姫美子の質問に小声だがはっきりと答える。

「彼の会社に着いたの? そこから思い出を見せてちょうだい・・・ああ、良いわね。そこよ」

 姫美子は女性の思い出を両手で広げると、目の前に持って行った。そして、まるで、両手の上に女性の思い出が乗っているかのように、優しく、優雅に指先を動かした。

 女性が会社を出てからのことが思い出として残っていた。

 脳に障害があって、記憶が欠落してしまった訳ではないようだ。記憶の糸が繋がっていないのだ。それは、女性の意思であるのかもしれない。


――夫に殺されかけた。


 ということが事実であるとすれば、それを忘れたい。思い出したくないのかもしれない。精神的なショックが記憶を封印してしまっている可能性が高かった。

 女性の記憶を追う。

 夫の会社に向かっているのだろう。町を歩いて行く。やがて、女性は一人の男性がスーパーから出て来るのを見て、ぎょっとして足を止めた。

 男の顔を見た途端、過去の記憶が蘇って来ていた。

 男が中年の女性にからんでいる様子だ。からまれているのは、どうやら女性の母親のようだ。母親の台詞が聞こえる。

「あり金、全てあげるから。二度と、私たちの前に姿を現さないで! 勝手に娘に会ったりしたら、あなたのこと、殺してやる‼」

 父親だ。幼い頃に、家族を残して失踪したという父親のようだ。金に困って、捨てたはずの家族のもとに現れた。そして、母親から金をたかっていた。その、あさましい父親の姿を女性は見てしまったのだ。


――あれが、お父さん。


 男の顔が女性の脳裏に刻み付けられた。

 その父親が目の前を歩いている。

 女性は跡をつけた。夫の会社とは方向が違ったが、父親の行方が気になった。

 男がアパートの階段を登って行く。アパートに住んでいるようだ。女性が後に続くと、父親が振り返った。女性が階段を登って、父親と向かい合う。

「お父さん」と女性が呟くと、父親はぎょっとした表情で顔を強張らせた。

「何故、こんなところにいるんだ!」

「ここに住んでいるの?」

「止めろ。人違いだ。俺はお前の親父なんかじゃない!」

 父親が罵声を浴びせかける。

「何故、私たちを捨てたのよ!」と女性が叫ぶと、「うるさい。お前など、俺は知らん!」と叫んで父親が女性を突き飛ばした。

「きゃあ~!」

 女性は悲鳴を残して、階段から転げ落ちて行った。

 女性は気を失い、記憶はそこで途切れていた。


――さて、どうする。


 と姫美子は考え込んだ。

 女性が記憶を失った原因が分かったような気がした。自分たちを捨てた憎い父親であったかもしれない。だが、父親は父親だ。女性は父親に対して幻想を抱き続けた。きっと何か理由があって、姿を消したのだと。そう父親を美化していた。

 そして、父親と出会った。

 後を追い、話しかけることが出来たのだが、父親に拒絶された上に、階段から突き落とされた。実の父親に殺されかけたのだ。

 そのショックから女性は記憶を封印してしまった。

 真実を伝えれば、女性はショックを受けてしまうだろう。そもそも記憶を封印してしまうほどのショックだったのだ。真実を伝えることは、あまりに無慈悲に思えた。

 だが、黙っていれば、旦那の浮気疑惑が残ったままになる。夫婦生活に影響を及ぼしてしまうかもしれない。

 難しい選択だ。

 姫美子は一旦、思い出交換を中断して、部屋を出ると、待っていた友人と相談した。

 事情を聞いた友人は、「それは・・・」と絶句してしまった。実の父親から拒絶され、殺されかけた。その事実を女性に伝えることは、あまりに可哀そうだと友人は泣いた。

「アパートの階段にまつわる思い出がありますか?」と姫美子が聞くと、友人は「あります!」と直ぐに何か思いついた様子だった。

 子供の頃、友人の女性は、女性の家の近くのアパートに住んでいた。階段の踊り場が彼女たちの遊び場だった。そこで、二人でままごとをしたり、ガールズトークをしたりして楽しんだ。

「階段から落ちたことは?」

 この姫美子の質問にも「あります!」と友人は即答した。

「一段飛ばして階段を駆けあがっていて、失敗して躓いて階段から転げ落ちたことがあります。転げ落ちた時に、ついた腕をねんざしてしまいました」

「そう。その思い出、彼女にあげても良いかしら」

「そんな思い出で良ければ」

「助かる。じゃあ、部屋に入って」

「はい。で、どうするのです?」

「子供の頃、あなたと階段で遊んでいたのなら、その思い出を強調するの。似たアパートがあったから、懐かしくなって階段を登った。子供の頃を思い出して、一段、飛ばして階段を登っていたら、躓いて転落してしまった――そのあなたの思い出を彼女に植え付ける。その代わり、あなたには、彼女が父親と会った時の辛い思い出を抱えてもらう」

「私にとっては、そんなにショックな思い出ではないので、大丈夫です」

「そう思う」

「でも、何故、アパートに行ったのか、説明がつかないのでは?」

「そこは、曖昧にするしかないかも」

「そうですね」

「思い出を失えば、彼女はまた父親を捜して、痛い目に遭うかもしれない。その時は――」

「はい。私が支えになります」

「ふふ。ずっと彼女の友だちでいてね。あなたがいれば大丈夫」と姫美子が言うと、友人はにこりと笑った。

「さあ、こちらへ」へ部屋に招き入れると、「そこの椅子に腰かけて、背もたれをいっぱいに倒して、横になって、リラックスしてください」と友人に言った。

 隣には女性がすやすやと寝息を立てて寝ていた。その寝顔を見て友人が呟いた。

「浮気じゃなくて良かった」

「そうね。じゃあ、始める」

 姫美子がピアノを弾くように優雅に指を動かし始めた。

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思い出交換所 西季幽司 @yuji_nishiki

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