記憶喪失①
「友だちが知り合いから聞いた話なんですけど~」と語尾を伸ばしながらブックが言う。
友だちの知り合いなら、ほぼ他人だ。
新宿の雑居ビルの二階にある思い出交換所は、場末の寂れたバーにしか見えない。ブックはそこのコンパニオンこと店員だ。
開店前の平和だが忙しい時間だった。
「なあに?」と姫美子。
漆黒の黒髪を姫カットにし、切れ長で大きな瞳、官能的な肉厚の唇を持つ、クレオパトラを思わせる美貌と神秘性を兼ね備えた美女だ。この思い出交換所のオーナーでもある。
姫美子はヨシキとブックが開店準備をするのを、椅子に腰掛けぼんやりと眺めていた。ヨシキが台所で料理の仕込みをしている隙に、ブックがやって来て世間話を始めた。
「その友だちの知り合いの友だちというのが――」とブックが話を続ける。
大きな目にラッキョ鼻、やや下あごが張っており、口が大きく、笑うと白い歯にえくぼが魅力的だ。
「階段から転落した時に、頭を打ったみたいで、記憶喪失だそうです」
「記憶喪失⁉ それは大変ね」
「それが――」とブックは誰もいないのに声を潜めると、姫美子に顔を寄せて「旦那さんに殺されかけたのかもしれないのです」と言った。
「それはまた物騒な話ね」
「でしょう~」
友だちの知り合いの女性によれば、二人は共働きで職場は違うが、勤務先は近かった。その日、女性は夫の浮気を疑い、旦那の後をつけた。そして、旦那の浮気の現場を見つけたが、階段から突き落とされ、記憶を失ってしまったと言うのだった。
他のことは、ちゃんと覚えているのに、その日、仕事を終えてからアパートの階段から転落するまでの記憶が無くなっていた。どうしても思い出せないのだと言う。
「記憶を失っているのに、随分、細かいことまで分かっているのね」
「まあ、ほとんどが、友だちの知り合いの想像に過ぎないみたいですけどね~」
「な~んだ。そうなの」
「でも、随分、心配しているみたいで、友だちにまで相談して来たのです。それで、私、友だちから相談を受けて、姫美子さんなら、何とか出来るんじゃないかって思っちゃって~」
「全く・・・」
「姫美子さんなら、本人が忘れていたって、記憶を探って、何があったのか分かるんじゃないですか?」
「記憶喪失にも色々、あってね。頭を打った衝撃で脳の一部が傷ついて記憶が無くなってしまっている場合は、私にもどうしよもないの。脳に記録されていないと再生できないのよ。頭を打った衝撃で、記憶が上手く再生できないことがある。その場合、記憶の糸を繋いであげれば、あの日、何があったのか思い出せるようになるかもしれないけどね」
「それです! それ、何とかなりませんか?」
「そうねえ~」と姫美子が考え込む。
ブックがきらきらとした目で姫美子を見つめる。
「そんな目で見つめられたら、ダメとは言えないね」
「やった~!」
「何故、友だちの知り合いの、そのまた知り合いのことが気になるの?」
「だって、サスペンス・ドラマを見ているみたいじゃないですか。旦那に殺されかけて記憶を失った女性だなんて」
「やだ。悪趣味」
「えへへ」とブックが笑った時、ヨシキが台所から戻って来た。
「何だか楽しそうですね」
「ブックちゃんがね――」と姫美子がブックから聞いた話を話して聞かせた。
「何だか事情がありそうです。下手に首を突っ込まない方が良いのでは」とヨシキが言う。
「あら、そう言われると、俄然、やる気になってきた」
「僕はただ、姫様のことが心配なだけです」
ヨシキは姫美子のことを「姫様」と呼ぶ。
「過保護ね」
「でも、まあ、やると決まれば、協力します。僕に出来ることなら、何でも」
「あら、そう言われると、急に怖くなって来た」
「天邪鬼な人ですね」
「そう。それが私」
姫美子は腰に手を当てて、「はっは」と笑った。
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