コーチの教え②
プロ野球公式戦がスタートし、オールスターを迎える頃、「マルキン」の神代が二人の男を伴って、思い出交換所に現れた。
今日は開店から姫美子がいると思ったら、神代に頼まれていたからのようだ。神代が連れて来た男を見た途端、ブックが「あらっ!」と悲鳴を上げた。
「安西さん」ヨシキも気がついた。
ロイヤルズ二軍打撃コーチの安西だ。
「悪いね。姫美子ちゃん。こいつの話を聞いてやってくれないか」と神代が言う。
「マスターの頼みは断れないわ」と姫美子。
ん⁉ デジャヴだ。どこかで見た光景だ。
「こいつは安西。今、ロイヤルズの二軍で打撃コーチをやっている。姫美子ちゃん、覚えているかい?」
「ええ。彼は私のこと、覚えていないでしょうけど」
「こいつが畑野に相談して、畑野から俺に相談があった訳だ。畑野だって、何も覚えていないはずだけどね」
畑野は安西がブレイクした翌年には、監督の交代に伴いロイヤルズを去っている。その後も安西は畑野と連絡を取り合っていたということだ。
「マスターって、頼りがいがあるから」
「はは。嬉しいね。ほら、安西、姫美子ちゃんに相談しろ」と神代が安西の背中を押した。
「ロイヤルズの二軍で打撃コーチをやっている安西と申します。相談と言うのは、彼のことなのです。彼、今は二軍でくすぶっていますが、いずれ日本を代表するような、いや、メジャーで活躍するような選手になると思っています」
話している内に、安西の口調が熱を帯びて行く。「二軍でくすぶっているのは、バッティングに波があるからなのです。バッティングはタイミングです。そのタイミングのコツがつかめていない。だから、バッティングに波があるのです。私もバッティングのタイミングのコツを得るのに、時間がかかったので良く分かります。対戦したことはない投手なのですが、何故か関西ナショナルズ古木投手からホームランを打った記憶があって、『ああ、このタイミングだ』とコツをつかみました。きっと当時、打撃コーチだった畑野さんに映像を何度も見せられたからでしょう。タイミングのコツを体感することができた。そのコツは言葉では上手く説明できないのです。そこで、本当に思い出を交換できるのなら、そのホームランを打った時の記憶を彼に移植したいのです」
驚いた。一語一句とは言わないが、畑野と全く、同じことを言っている。記憶にないはずなのに、同じことを言い、同じことをやろうとしているのだ。
ブックは呆気にとられた。
「思い出を交換するとなると、彼にも何か忘れてしまいたい思い出が必要になります。あなた、忘れてしまいたい思い出がありますか?」と安西が連れて来た若い男に姫美子が尋ねた。
「はい」と若い男は元気良く答えると「高校時代、甲子園の地区大会の――」と言い出したので、ブックは「あは」と声を立てて笑ってしまった。
まるで録画を見ているようだ。
みんなの視線が集まる。「ごめんなさい」とブックは謝った。
「そう。じゃあ、思い出交換をやってみましょう」
畑野の思い出が安西へ譲られ、今度は若い有望選手に移植されてようとしている。姫美子に連れられて、安西と若い男がメモリートレードセンターへと消えて行った。
「ブックちゃん。安西のこと、少しは見直したかな?」ヨシキが尋ねる。
「なんか、凄い・・・ちょっと感動しちゃった」
「凄い?」
「だって、みんな無意識で同じこと言い、同じことをやろうとしているのよ」とブックが言うと、全ての事情を知っている神代が「それだけ、野球が好きだってことだろう」と満足そうに言った。
「そうですね」とヨシキが同意する。
「私、ロイヤルズを応援する!」
ブックが宣言した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます