あと一歩①

 思い出交換所は新宿にある雑居ビルの二階にある。

 同じフロアに深夜喫茶「マル・オブ・キンタイヤ」という店があった。飲み屋街に喫茶店がと思う人がいるかもしれないが、酔いを醒ましたい酔客や、喧騒に溢れる夜の新宿から避難して来た人たちでにぎわっている。

 深夜喫茶店は常連客から「マルキン」と呼ばれ親しまれている。

 姫美子もそんな常連客の一人だ。

 メモリートレイダーとしての仕事なんて、そうそう無い。日頃はマルキンでたむろしていて、思い出交換所の表の業務が忙しくなると、ブックが呼びに来るので手伝いに行く。

 店内の隅に、柱とカウンターに挟まれて個室にようになった場所がある。そこが姫美子の指定席だ。マスターが姫美子の為に席を空けておいてくれる。

「マルキン」のマスター、神代篤史かみしろあつしは五十代だろう。頭髪も顔一面に伸ばした髭も半分近く白くなっている。太い眉の下の窪んだ眼窩に黒目勝ちの小さな眼がうるうると輝いている。ブックは神代をテディベアみたいだと言う。

 姫美子はコーヒー一杯で指定席に居座り続けるが、神代は何も言わない。逆に、「姫美子ちゃんがいてくれると商売繁盛だ」と歓迎している。

 美人の姫美子目当てに通ってくる客がいる上、姫美子は「新宿のクレオパトラ」と呼ばれ、占いがよく当たると評判の占い師のようになっているのだ。

 それもそのはずだ。

 姫美子は他人の記憶を映画のフィルムにように見ることが出来る。

 家族構成から経歴まで、知ろうと思えば、全てを知ることができた。相対して、「あなた、仕事で悩みを抱えていますね」だとか、「おや? お母さんがご病気なのですか」とズバズバ悩み事を当てられると、姫美子の占いを信じてしまう。

「思い出から性格を分析して、その人に一番、合っていると思う道を示してあげているだけよ」と姫美子は言う。

 思い出交換をする候補者の中には、姫美子に占ってもらいたいとやって来た人が少なからずいた。

「姫美子ちゃんに頼みがあるんだ」と神代篤史が姫美子の指定席にやって来て言った。

「マスターの頼みなら、断れないわね」

 珍しい。神代が頼み事をするなんて。

「高校の後輩に田辺ってやつがいるんだが――」と神代が話し始めた。

 神代は中学、高校、大学と野球部に所属し、高校時代は甲子園を目指した高校球児だった。草野球のクラブチームを結成していて、監督を務めている。今でも野球への情熱は冷めていない。

 そんな神代の高校の後輩に田辺という男がいた。

 野球部の後輩でもあり、田辺も甲子園を目指してハードな練習に耐え抜いた。そして、迎えた県大会予選、一回戦を順調に勝ち上がり、チームの意気は上がった。

 二回戦。息詰まる投手戦となり、二対一とリードしたまま、九回裏を迎えた。この回を守り抜けば三回戦に進むことが出来る。勝利は目前だった。

 ポンポンとツーアウトを取ったが、そこから四球でランナーが出て、次の二番打者に二塁打を打たれた。ツーアウト、二、三塁、迎えるのは相手の三番打者、一打サヨナラ負けの大ピンチだ。

「田辺はセンターを守っていました。守備の上手い子で、足も速かった」

 三番打者を歩かせ、満塁策を取った。四番打者との勝負だ。その日はノーヒットで当たっていなかったが、痩せても枯れても相手は四番打者だ。油断は禁物だった。

 初級、四番打者がフルスイングした当たりは、ライナーでセンターへ飛んだ。

「田辺は懸命に走った。そして、ダイビングキャッチを試みたが、あと一歩、届かなかった。打球は点々と外野を転がって、その間にランナー二人がホームインして、チームはサヨナラで負けた。あと一歩、だったんだけどね」

「惜しかったですね」

「それでも試合が終わってから、色々、言われたようだ。無理に取りに行かずに、確実に補給をしていれば、同点のままだったんじゃないかとかね。俺もあの試合、見たけど、どうだろう? ヒットを打たれた時点で、二者生還は止む無しだったんじゃないかと思う」

「一か八かの賭けに出た訳ですね」

「ところが、田辺はそうは思っていないようなんだ」

「そう思っていない?」

「うん。ボールを追って走っている内に、足がもつれて転倒してしまった。それが、たまたまダイビングキャッチのように見えてしまっただけだ。自分があの時、ちゃんとダイビング出来ていれば、ボールにグラブが届いたんじゃないかってね」

「そうなのですか?」

「どうだろう? 確かに足がもつれてこけたように見えなくもなかったけど・・・とにかく微妙なプレーだったし、ちゃんとダイビングできたからと言って、ボールが捕球できたとは言い切れない。まあ、同級生からは、あれは、こけただけだと今でもからかわれるそうだが」

「何だか可哀そう」

「まあ、二回戦を勝ち上がっていたとしても、甲子園に行けるようなチームではなかったんだけどね。でも、それから田辺は何をやっても、あと一歩のところで上手く行かなくなったらしい。大学受験は僅かに点数が及ばず落第したし、大学卒業時にも、単位足りずに留年したそうだ。就職面接でも最終面接まで行って落とされたり、何とか滑り込んだ会社でも、第一希望の部署には配属されず、第二希望の部署へ回されたり、彼女だって、本命には振り向かれずに、本命の友人と付き合うことになったりと――」

「ふふ」と姫美子が笑った。「ごめんなさい。笑っちゃあいけないんでしょうけど、つい・・・」と笑いを堪えながら言う。

「そう。笑っちゃうよね。それで、心機一転、やり直す為に、県大会の思い出を忘れてしまいたいらしい」

「なんだかもったいない。青春の思い出なのに」

「最後のダイビングキャッチのシーンだけ、何とか消し去ることができないかな? 本人がこけてしまったと思った、その一瞬だけを」

「できると思う」

「それは良かった」と神代は嬉しそうな顔をした。そして、「実は、思い出を交換する相手も決めてあるんだ」と姫美子の顔色を伺いながら言った。

「あら。随分、気が早い」

「姫美子ちゃんには、迷惑をかけてしまうけど・・・」

 神代が申し訳なさそうな顔をした。

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