人の感情は操れない①
「姫様。ちょっと良いですか?」
ヨシキがカウンター越しに姫美子に尋ねた。ヨシキは姫美子のことを、姫様と呼ぶ。
「なあに? ヨシキさん」
姫美子は傾けていたグラスをテーブルの上に置いた。
ヨシキは思い出交換所に勤めるバーテンダーだ。思い出交換所は表向き、バーになっている。パッとしない店名の寂れたバーだ。思い出の交換は商売ではない。
ヨシキはアラサーで、手足が長くて、ファッション雑誌から抜け出して来たようなスタイルの良さだ。バーテンダーとして腕も一流だし、ヨシキ目当てに通って来る女性客が多い。
細面で鼻筋の通った整った顔立ちだが、左の眉毛が一筋、切れて無くなっている。恐らく、ナイフによる傷跡だ。ヤンチャな過去があったようだ。
ヨシキが姓なのか、名前なのか誰も知らない。
「少々、面倒な相談を受けちゃいました」
「面倒な相談?」
「ストーカーです」
「ストーカー? 詳しく話して」
「この間来た客の知り合いらしいのですが――」とヨシキが説明を始めた。
よくある話だった。
元カレからストーキングされていると言うのだ。元カレは高校の同級生だが、高校時代は親しくなかったらしい。高校卒業後、女は短大へ進学し、男はスーパーに就職した。スーパーが女の家の近所にあり、二人は当然のように再開した。
若い二人は運命だと思ったことだろう。
日中は真面目に働いているが、週末の夜になると、好きなバイクで暴走する、そんな男だった。危ない男に惹かれる若い女は多い。
何時しか、二人は付き合い始めた。
だが、破局が訪れた。
女が合コンに参加し、有名私大の学生に口説かれたからだ。女は、スーパーの店員と有名私大の学生を天秤にかけたのかもしれない。そして、大学生を選んだ。
女が別れを切り出すと、「お前無しでは生きて行けない。別れると言うなら、お前を殺して俺も死ぬ」と脅されてしまった。そして、女の後を付け回すようになった。女は怖くなって友人に相談し、その友人が客となってヨシキに相談したという訳だ。
「思い出は操れても、人の感情は操れないのよ」
姫美子が頬杖をつきながら言った。
「でも、姫様だったら、何とかできるのではありませんか?」
「そう言われても・・・」と姫美子は考え込む。
メモリートレイダーは、思い出は操れても、人の感情までは操れない。思い出を弄ることで人の感情に影響を及ぼすことはできる。だが、それは二次的な副産物であり、人の感情を意のままに操ることなどできないのだ。
「男から彼女の記憶を消し去ってみては?」
「ダメね。リスクが大きい。今、彼の頭の中は彼女のことでいっぱいだと思う。そんな彼から、彼女の記憶を一気に消し去ってしまうと、長い間、記憶喪失になっていたみたいなもので、日常生活に支障が出たり、悪くすると精神が崩壊してしまったりするかもしれない」
「そうなのですか⁉」
「彼女も同じね。廃人を二人もつくる訳には行かない。もう少し時間が経って、思い出が短く編集されてしまえば、入れ替えることが出来るのだけど」
「それは、どのくらい?」
「本人次第。彼らにとって過去になってしまえば、大丈夫なのだけどね」
「難しいですね」
「難しいのよ」
「でも、姫様なら、何とか出来ますよね?」
「全く・・・ヨっちゃんの手にかかれば、オバサンなんてイチコロね。このオバサンコロリが」
「姫様はオバサンなんかじゃありませんよ。姫様は姫様」
「もう良い。その男のことについて、もっと詳しいことが知りたい。子供の頃に夢中になっていたこととか、将来の夢だとか。そういうものを持たせてあげると、彼女への執着が薄れるかもしれない」
「なるほど。聞いておきます」と言って、ヨシキがにこりと笑った。
「止めて。その笑顔」
「何故です?」
「オバサンを惑わすから」
「はは。姫様を惑わすことなんて出来る訳がない。だって、姫様は姫様だから」
「さっきから、何なの? それ」
ヨシキはまた眩しい笑顔を向けただけで、何も答えなかった。
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