罪深き女①

 新宿の雑居ビルの二階に思い出交換所はある。

 二階への階段の入り口に「思い出交換所」の小さな看板が立っているが、小店舗がひしめく雑居ビルだ。看板に埋もれるようにして目立たなかった。

 一見、ダサい名前の寂れたバーにしか見えない。細長い店内には奥にテーブル席がひとつあるだけで、後はカウンター席だ。店の半分近くをカウンターが占めている。

 そんな狭い店内の奥に、もうひとつ部屋があった。

 関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアの向こうには、椅子しか置かれていない部屋があった。薄い青緑で染められた部屋は、森林や海原を思わせる。

 質素な部屋だが、メモリートレードセンターと姫美子は親しみを込めて呼ぶ。大袈裟な名前をつけて喜んでいるのだ。

 メモリートレードセンターの更に奥にも、カーテンで仕切られた小部屋があるようだが、そこに立ち入ることが出来る人間はただ一人、メモリートレイダーこと、冴木姫美子だけだ。

 カーテンの奥がどうなっているのか、姫美子以外、誰も知らない。

 今日も薄い青緑色のメモリートレードセンターで、姫美子は一人の女性と向かい合って座っていた。

 女性は三十代、長くて細い足を強調したいのだろう。短いスカートを履いていた。長い髪に、補足尖った顎、吊り上がった眉、派手なネイル、ブランドもののバッグ、そして、ややきつめの香水を漂わせていた。

「お願い、あの日のことを忘れてしまいたいの」と女は言った。

「あの日のことを教えてください」

「あの日、朝から、どうでもいいことで夫と喧嘩をしてしまいました」と女が語り始めた。

 その日の朝、夫が携帯電話を見ながら朝食を食べているのを見て、「消化に悪いから止めなさい」、「消化に悪いなんて研究結果が出ているのか?」、「折角、つくった料理だから味わいながら食べて欲しいのよ」、「つくったって、食パン焼いて、ベーコンと目玉焼き焼いただけだろう」という会話から口論となった。

「もう知らないから!」と腹を立てる女を置いて、夫は逃げるように家を出て、会社に向かった。

 そして、出勤途中に、夫は駅のホームから転落して死亡した。

「あの日の朝、夫と喧嘩をしてしまいました。最後に夫に言った言葉が、あんたなんて大嫌い! でした。そんなことないのに。できることなら、夫に謝りたい。そして、伝えたい。夫のことを心から愛していたと・・・」そう言って、女はさめざめと泣いた。

 姫美子はクールだ。女に慰めの言葉をかける訳でもなく、「それで、その朝の喧嘩の記憶を消し去りたいのですか?」と聞いた。

「いいえ。その日、一日丸ごと、記憶を消してしまいたいのです」

「一日丸ごと?」

「はい。朝から夜まで、喧嘩してから、主人の事故のニュースを聞いて、泣き明かした夜までの記憶を全て消してしまいたいのです」

 まあ、分からないでもない。

「そうですか・・・」

「何か?」

「いえ。分かりました。実は思い出を交換したいという方が既に一名、いらっしゃって、お相手を探していたところでした。直ぐにでも思い出の交換ができると思います」

「本当ですか! 良かった。よろしくお願いします」

 女は喜んだ。

 女の後ろ姿を見送りながら、何故か心が騒いだ。キイキイと音を立てていた。

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