母の思い出②
三日後、姫美子から連絡があった。
どれだけ待たされるかと思ったが、思いのほか早かった。あまりに早いので、何か確認したい事があるのかと思ったが、「準備が整いました。思い出交換所にお出でください」とショートメッセージに書かれていた。
準備が整った! 思い出交換ができるのだ。
(これで母親の思い出を手に入れることができる!)
男は喜び勇んで思い出交換所へ向かった。
新宿の雑居ビルの二階に思い出交換所はある。一見、ダサい名前の寂れたバーにしか見えない。狭い店内には奥にもうひとつ部屋があって、そこで佐伯姫美子が待っていた。
「ごきげんよう」
姫美子と白髪で小柄な品の良い老婦人が男を出迎えてくれた。
「こんにちは~」と男が元気よく挨拶をする。
「あら、こんにちは。良かった、こんなに若くて元気な方に母の思い出をもらって頂けるのね」と老婦人が嬉しそうに言った。
「普段は思い出を交換する人同士、引き会わせたりしないのです。今回はあなたの要望が特殊だったから、こうしてお引き合わせをすることにしました」と姫美子が言った。
「何だか、すみません。良いんですか? 僕みたいな者に、大切なお母さんの思い出を渡したりして」
男が尋ねると、老婦人は「良いんですよ。母の思い出といっても、たくさんあるものの内、そのひとつですから。残りは私がお墓の中まで持って行きます」と言って笑った。そして、「最も――」と老婦人は言葉を続けた。「お墓の中まで持って行けないかもしれませんし」
「・・・?」どういう意味だろう。
「私、認知症なのです」と老婦人が言った。「昔のことは、よく覚えているのですが、最近のことはどんどん忘れてしまって・・・」
調子の良い日は普通と変わらないが、調子の悪い日は、たった一人の娘のことまで忘れてしまうのだと、老婦人は悲しそうに言った。どんどん忘れて行く自分が怖い。このまま、何も分からなくなってしまうのではと思うと、やりきれない気持ちになるのだと。
「だから、あなたに母の思い出をもらって欲しいのです。あなたの記憶の中で、母が生き続けてくれるなんて、こんな素晴らしいことはありません。御免なさいね。あなたから思い出をいただいても、私は直ぐに忘れてしまうかもしれません。何だか不公平よね」
老婦人は寂しそうに謝った。
「僕の思い出なんて、直ぐに忘れてもらって構いません。どうせ、つまらない思い出なのですから。あなたのお母さまの思い出、大切にします。いえ、大切にしようなんて思わなくても、僕にとって唯一無二の、大切な思い出になるでしょう。忘れられるはずがない」
男がそう言うと、老婦人は「まあ、まあ」と言って、ハンドバッグからハンカチを取り出して、そっと目頭を押さえた。
「若い人と思い出交換をすると、認知症の進行が止まることがありますよ」と姫美子が老婦人を慰めるように言った。
「あら、本当」と老婦人はやっと笑顔を向けた。
「さあ、そろそろ始めましょうか。お二人に予め伝えておかなければならないのは、今日、この日のことは記憶に残りません。ここに来たこと、こうしてお二人、顔を会せたこと、お話ししたこと、そして、思い出を交換したことは、綺麗さっぱり忘れてしまいます」と姫美子が言うと、「大丈夫よ。どうせ、私、直ぐに忘れてしまうから」と言って、老婦人が笑った。
「では、始めましょう」
部屋には椅子が三つ置いてある。二つは背もたれを倒せば、ほぼ水平になって楽にくつろげる大きな椅子で、足元にフットレストが置いてある。その二つの椅子の間に、ひじ掛けの無い小ぶりなアンティークチェアが置いてあった。そのアンティークチェアに姫美子が腰をかけ、左右の大きな椅子に男と老婦人が腰を降ろした。
小柄な老婦人は背もたれを倒すと、椅子にすっぽり収まった。男は、長い足をフットレスト乗せて体を伸ばした。
「さあ、目を閉じて。思い出を見せてください。先ずはあなたから、カラオケ大会で大恥をかいたことを思い出して」
膨大な記憶の中から思い出を探さなくても、こうして本人に思い出を辿ってもらえば、直ぐに目的の思い出に行き着く。便利な検索機能のようなものだ。
(あれは、会社の飲み会だったな?ビアガーデンだったので、夏だった・・・)
男は当時のことを思い出し始めた。
男は幼い頃に母を亡くしていた。
物心つく前のことで、母親のことは何も覚えていないはずだった。だが、男にはひとつだけ母親の思い出があった。
何処だろう。夕焼けに染まる道を歩いていた。まだ、しっかり歩けない。よちよちと頼りなげに歩いていた。母親を見上げた。笑顔を向けていた。顔が夕焼けで真っ赤に染まっていた。
立ち止まると、母親に向かって大きく手を上げた。
「しょうがないわね」と母親が抱き上げてくれた。
暖かい。
「夕焼けが綺麗ね」
母親の胸に顔をうずめる――覚えていることと言えばそれだけだった。
だが、母の優しい笑顔とオレンジ色に染まった周囲の景色がくっきりと記憶に残っていた。
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