母の思い出①
――思い出交換所。
それはトラウマを背負ってしまった人たちが駆け込む避難所のようなものだ。
都合の悪いこと、嫌な思い出を、忘れてしまうことが出来れば――誰だって、そう考える。だが、人はそう単純じゃない。
トラウマを抱えて生きて行くことになる。
そんな悩みを解決してくれるのが思い出交換所だ。
トラウマに囚われた人が、新しい一歩を踏み出すことができるように、優しく背中を押してくれるのがメモリートレイダーこと、
烏の濡れ羽色の髪を姫カットにし、切れ長で大きな瞳、官能的な肉厚の唇を持つ美女で、クレオパトラを思わせる美貌と神秘性を持ち合わせている。
「どうやって思い出を交換するのですか?」と若い男がクレオパトラに聞いた。
二十代だろう。初々しさで溢れており、姫美子を見る目に羨望の色が濃かった。
「私は人の記憶を映画のフィルムのように見ることが出来ます。そのフィルムのコマのようになった記憶を自由に切り取ることができるのです。後は、ぽっかりと空いた記憶の穴に別人の記憶を移し替えるのです。人の記憶に大きさや長さは関係ありません。コマを増やせば記憶は鮮やかなものになるのです」
「何故、思い出を交換する必要があるのです? 空いた記憶の穴はコマを増やして埋め合わせをすれば良いのでは?」
「先ほども申しました通り、人の記憶に大きさや長さは関係ありません。本人の記憶ですと、いくら増やしても穴は埋まりません。記憶に穴をつくってしまうと、精神が不安定になってしまいます。最悪、精神が崩壊してしまうかもしれません。だから他人の記憶で埋め合わせをするのです」
「へえ~そうなのですか」
「それで、あなたはどんな思い出を交換したいのですか? 忘れたい記憶とは?」
「いえ。僕は思い出が欲しいのです」男が言った。
無邪気な笑顔だ。凡そ悪意というものを知らない子供の笑顔のようだった。
「思い出が欲しい?」
「はい。僕は物心つく前に母親を亡くしていて、母の記憶がありません。どんな記憶でも、誰の記憶でも良いのです。母親の思い出が欲しいのです」と男は言った。
「それは・・・」と姫美子が絶句する。
思い出交換所は忘れたい思い出を交換する場所だ。欲しい記憶を手に入れる場所ではない。
「ここは辛い思い出に苦しんでいる人に、救いの手を差し伸べる場所なのです」
姫美子の言葉に、男は真剣な表情で、「僕も助けを求めている人間の一人です。母親の思い出が無いことに、ずっと寂しさを抱えて生きて来ました。これからも、そのことは僕につきまとって離れない。僕を助けてください。ダメでしょうか?」と訴えた。
確かに、男の言うことにも一理ある。人を救うという目的は同じだ。だが、男の希望を叶える為には大きな障害があった。
「母親の思い出を捨ててしまいたい人など、そういないでしょう。ご希望に沿うことができるかどうか分かりません」
「そうですね。確かに、母親の思い出を消し去りたい人間など、滅多にいないかもしれません。でも、もし、そんな方が現れたらで良いのです。もし、そんな方が現れたら、是非、思い出を交換して頂きたいのです」
「思い出を交換するとなると、あなたの思い出が必要になります。忘れてしまいたい思い出がありますか?」
「僕にですか⁉ 忘れてしまいたい思い出・・・」と男は暫く考えてから、「はは。随分、能天気なやつだと思われるでしょうけど、特に忘れてしまいたい思い出なんてありませんね。強いて挙げるとするなら、カラオケ大会で、トップバッターで歌って恥をかいたことくらいです。僕、もの凄い音痴なので――」と言って、男はカラカラと笑った。
確かに能天気なやつだ。
「候補者を見つけるのに時間がかかりそうです」と姫美子が言うと、「今まで母親の記憶がないまま生きて来たのです。この先、十年だって、二十年だって待ちますよ」と言って、またカラカラと笑った。
「そうは参りません。私にはそんなに時間がありませんから」と姫美子は寂しそうに答えた。
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