雪合戦②

――思い出交換所。覚えていますか?


 彼女はそう尋ねた。

「思い出交換所? いいえ、覚えていません」

「そうですか・・・」

「何がご存じなのですか? 僕の雪合戦の思い出と、その思い出交換所との間に、何かつながりがあるのでしょうか? ご存じなら、教えてください」と僕が言うと、彼女はまつ毛を伏せながら、「あなたの雪合戦の記憶は兄のものなのです」と答えた。

「お兄さんの?」

「はい。実は――」と彼女が語り始めた。

 彼女の兄は子供の頃に弟を水難事故で亡くしていた。大雪が降った日、兄は校庭で友達と雪合戦をする為に出かけた。「僕も雪合戦がやりたい」と弟がついて来たが、まだ体が小さかった弟は足手まといになる為、「ついて来るな! 家に帰れ」と何度も追い返したと言う。だが、追い返されても、追い返されても、兄を追いかけ続け、結局、弟は校庭までついて来てしまった。

 雪合戦が始まった。夢中になった兄は弟の存在を忘れてしまった。ふと、気がつくと、弟の姿が無かった。

 校庭の周りは一面、田んぼで、校庭の端に用水路が流れていた。農閑期は水量が僅かだが、このところの大雪で水量が増えていた。しかも、水路が雪で覆われて、見えなくなっている箇所があった。この時期だ。用水路に落ちると、ひとたまりもない。あっという間に体温を奪われてしまう。

 兄は名前を叫びながら、弟を懸命に探した。

「結局、弟の遺体が見つかったのは、春になってからでした」と言う彼女の眼には薄っすら涙が浮かんでいた。「それ以来、兄は弟の事故に囚われてしまいました。寝ても覚めても、くよくよと弟の事故のことばかり考え続けました。あの時、無理矢理にでも弟を家に連れ帰っていれば、雪合戦なんかに行かなければ良かったと」

「・・・」僕は黙って彼女の話を聞いていた。

 僕が何を言っても、気休めにしかならないような気がしたからだ。

「兄は引き籠るようになってしまいました。何時までも弟の事故を引きずる兄を、まるで腫れ物に触るように扱うしかありませんでした。家族みんな、苦しんでいたと思います。それが、三年前――」

「三年前⁉」

「東京に遊びに行った友人から妙な噂話を聞きました」

「妙な噂話?」

「新宿に思い出交換所というお店があって、そこに行けば辛い過去や思い出したくもない記憶を消してくれると言うのです。普通なら、そんな突拍子もない馬鹿げた話、誰も信じないでしょう。でも、私たち、本当、藁にも縋る思いだったのです。兄を何とかしたくて。兄に立ち直ってもらいたくて。私、兄を連れて上京しました」

 新宿の何処かだった。雑居ビルの二階に思い出交換所があった。表向きはバーのようだが、店の奥に小さな部屋があって、そこに若い女性がいた――と彼女は言った。

「クレオパトラみたいな人でした」とその女性を例えた。

「クレオパトラですか?」

「すみません。下手な例えで。でも、そう感じたものですから」

「そこでお兄さんの思い出を消してもらったのですか?」

「厳密には誰かの思い出と交換したみたいなのです。思い出を取り出して、辛い部分を消去して、そして、ぽっかり空いた部分に、同じようにして取り出した別人の思い出で埋め合わせるのだ――と、そんなことを教えられました。他人のものですが、美しい思い出になるのよと、それに今日、ここに来たことは覚えていませんよと、クレオパトラみたいな人に言われました」

「それで、お兄さんは元気になったのですか?」

「はい。すっかり。弟が事故で亡くなったことは覚えているのですが、詳しいことは覚えていなくて、遊んでいて用水路に落ちて死んだ――ということだけしか知りません」

「へえ~良かったですね」

「はい。その代わり、時々、妙なことを言い出すようになったのです。俺、真子っている女性と付き合っていたみたいだって」

「それは・・・」僕の記憶だ。

「引き籠りだった兄に、恋人なんかいませんでしたし、女性と付き合っていたみたいだって、その言い方、変でしょう。あの時、思い出を交換した方の記憶なのだと直ぐに分かりました」

「確かに、僕の記憶のようです」

 僕は真子とは自然消滅の形で別れたことを彼女に伝えたが、よほどひどい別れ方をしたのだろう。そして、僕はそのことを思い出したくなかった。

 彼女もそのことが分かっている様子だった。

 僕には思い出交換所を訪ねた記憶など無かった。クレオパトラが消してしまったのだろう。

「良かった。今日、ここで、あなたと会うことが出来て。お陰でスッキリした気分です」と僕が言うと、「私、あなたと会っているのです。あの日、思い出交換所で」と彼女が言った。

 彼女の話によれば、晴れ晴れとした表情で部屋を出て来た兄を迎え、「気分はどう?」、「何か変わったところはない?」と質問責めにしている時、横を通り過ぎて行った若い男がいたということだった。

「それが僕だった訳ですね?」

「一瞬、ちらりと見ただけでしたので、確信は無かったのですが」と言って彼女が笑った。「校庭にあなたが立っているのを見た時、まさかと驚くと同時に、やっぱりっていう気持ちがありました。記憶を頼りに、ここまで来てくれたんだなって」

「僕なんかで良かったのでしょうか?」

「あなたが弟の記憶を持っていてくださる。あなたで良かった。そう思います」

「ありがとうございます」

「それで、あなたは今?」

「僕ですか⁉ 元気ですよ。今日、ここに来たのは、出張でこの町に来たからなのです」と言って、校庭に来た経緯を伝えた。

「良かった。あなたも、もう思い出に縛られていないのですね」

「はい」

 日が暮れて来た。明日は天気になりそうだ。夕焼けが彼女の顔を赤く染めていた。

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