河川敷、隣の先生

笹木ジロ

河川敷、隣の先生

 昨日と同じ景色を窓から眺める。ぽつりぽつりと歩く人の頭が見える。そして、たまに我が家を訪ねてくる姿もある。お客さんだ。お客さんは、小さな家族を連れている。大事そうに、心配そうに、その家族に寄り添っている。でも、大丈夫。先生がいるから、もう安心だ。せっかくだから僕もなにか手伝いたい。けれど、それは先生に禁じられている。仕事中は二階から降りてきては駄目だと言われているんだ。

 納得がいかないよ。ぜったいに僕も役に立てるのに。

 先生は獣医だ。だから、先生と呼んでいる。もしかしたら、お父さんって呼んだほうが喜ぶかもしれない。もしくは、名前で織雄おりおって呼んでもいいのだけれど、違和感がある。仕事を終え、普段着に戻った先生を見ても、なんだかやっぱり先生は先生のままなんだ。だからなんとなく、先生という呼び方がしっくりくる。

 僕には才能がある。そう感じたのは、誤って先生の仕事中、下に降りてしまったときのことだった。先生は怒っているような、驚いているような、そんな顔をしながら大慌てで僕を二階へと押し戻そうとした。そのとき、お客さんの連れている犬と目が合った。「暑くてだるいなあ、なにも食いたくないなあ」、そう聞こえた気がした。先生は僕の尻を軽く押しながら、「このあと検査をするので、ちょ、ちょっとだけ待っていてください!」と焦りながらお客さんに声をかけていた。先生、たぶんあの犬は夏バテなんだと思う。そう伝える暇もなく、先生は僕を二階に運ぶと、足早に下へと戻っていく。先生にはわからないんだ。先生にない才能が、僕にはある。だから、どうか手伝わせてほしい。役に立ちたい。なんで駄目なんだろう。僕がまだ子どもだと思っているのかな。生まれて十年にも満たないけれど、僕は子どもなんかじゃない。

 空が橙色と紫色の斑模様だ。先生が仕事を終えた後の時間。気温も涼しくなり、風に全身を撫でられるのも心地いい。こうして、先生とのんびり歩く時間が好きだ。どこに行くわけでもなく、公園でくつろいだり、川を眺めたり。

冬助ふゆすけ、いつも我慢させてごめんな、今度旅行にでもいこう」

 冬助ふゆすけって名前は気に入っている。少し渋いような、可愛いような、妙なバランスの響きが好きだ。「星が綺麗な夜、深く冷たい空に魅了されてしまったことがある、その翌朝に冬助ふゆすけが生まれた」、と先生は言う。昨晩眺めた冬空が忘れられず、そのまま冬助ふゆすけって、あまりにも安直だけれど、まっすぐな先生らしくてなんだか良い。


 元気が出ない。今日は窓からの景色を楽しむつもりにもなれず、床に寝転んでいる。ころころと話題が移り変わるラジオに耳を貸せば、いくらか気も紛れる。それでも、今回のことは少し悲しい。最近の先生は多忙だ。時間もとれず、また今度、また今度、と旅行の約束は流れていくばかり。かと言って、手伝いも許されない。ただただ二階から陽が落ちるのを待つ日々。さすがの僕も物憂げになってしまうよ。けれど、先生に僕の気怠そうな姿をさらすわけにはいかない。きっと、心配させてしまうからね。仕事を終えた先生を迎えるときは、しっかりと笑顔を振りまくんだ。先生もたいへんだからね。仕方ないと思うんだ。

 それなのに、少しの違和感は伝わってしまうものなのかな。今日は午前中から先生とお出かけだ。スポーツができる施設に連れて行ってくれるみたい。先生の気遣いも、運動ができることも、どちらも嬉しい。施設に着く。屋内は決して広いわけではないけれど、小さい僕からすれば十分に遊び倒せる広さだ。見渡しても見渡しても、一面が娯楽の山で、わくわくが止まらない。先生とキャッチボールなんて久しぶりだ。楽しさのあまり、つい夢中になりすぎないようにしないと。興奮で我を忘れてしまっては、途端に息は上がり、先生を困らせてしまうだろうから。

 しばらくして、ひとりの女性が近寄ってくる。その人は自分をトレーナーだと、そう僕らに挨拶をした。選手交代。先生は少しばかり外に出てくると言い残し、トレーナーさんと僕とでキャッチボールは継続することとなった。トレーナーさんは良い人だ。「うまい! うまい!」と僕を褒めてくれる。もしかして、向いているのかな。そしたら、将来は野球選手を目指すのもいいかもしれない。先生のように獣医になろうと思っていたけれど、ひとつ目標の選択肢が増えるのもいいことだよね。

 困ったことがある。理由はわからないけれど、トレーナーさんが気になって仕方がないんだ。トレーナーさんは愛嬌があって、はつらつとしていて、なんだか輝いて見える。小さな僕が見上げる必要があるほど、トレーナーさんは僕よりずっと大きい。大人の女性なんだ。だったら、この差は大きな壁に見えてしまうよ。なんて、そんなことを考える僕は、どこかおかしいのかもしれない。きっと、久しぶりの激しい運動で、興奮しているからだと思う。


 トレーナーさんが忘れられなかった。先生は、あれから何度もスポーツのできる施設に連れて行ってくれる。途中で、どこかに行ってしまう先生が不思議だったけれど、トレーナーさんと遊べるのだから、あまり気にならなかった。せっかくだから、先生とも一緒に遊びたい。その気持ちは、たぶん、どこかにある。でも、先生にも事情があるのだろうし、トレーナーさんが構ってくれるので、寂しいとは思わずに済んだ。

 僕は気づいた。トレーナーさんと遊んでいるときは、遊びよりもトレーナーさんしか見えていないことに。初めての感覚だ。どうしていいかわからない。ただ、心の底にぼんやりと、この人を欲する自分がいることはわかる。欲しいってなんだろう。一緒にいてほしいのかな。それとも、撫でてほしいのかな。ひとつだけわかるのは、これが好きってこと、だと思う。好きだったら、どうしたらいいのかな。初めてのことだらけで、こんがらがってしまうよ。

 結婚したい。そう彼女に伝えた。好きの先がわからなかったから、たぶんこうなのかな、そう思って声に出した。けれど、彼女は笑顔のままで、驚く様子もなかった。そして、返事もなく、まるで僕の出方を伺っているように、首をななめに傾けてこちらを見ている。僕が小さいから、本気にしていないんだ。からかわれている気分。生まれたのは羞恥心や後悔ではなかった。むしろ、燃えるような情だった。

 僕は彼女の膝の上にしがみつき、必死に訴える。それは思いを伝えるというよりも、僕の中の野生に従っている心地だった。そして、彼女の反応を待つまでもなく、自分がどれほど虚しい挑戦をしているかを悟り、狼狽えてしまった。どれだけ本能に身を任せようとも、それ以前の問題なんだ。僕のからだが理解し、続いて頭が現実を飲み込んでいく。

「あはは、びっくりしたなあ、どうしたの? だいじょうぶ?」

 だいじょうぶ、って。その言葉はあんまりだよ。でも、なんとなく、わかったよ。僕はいま、たぶん、フラれたんだよね。そっか。寂しいなあ。


 雨に打たれているはずなんだけれど、雨なんか降っていない気がする。心に穴があくって、こういう感じなんだ。からだが濡れる鬱陶しさも、まったく気にならない。ひとりで近所の河川敷を歩く。僕以外にだれも歩いていないほど、風も雨も激しい。昨日の傷心から、帰り道も我が家の出来事も、なにも覚えていないよ。ただ、居ても立ってもいられなくなって、先生の制止を振り切って、いまに至る。

 ごめんね、先生。心配させてしまって。でも、僕は僕を見つめ直す時間が欲しいんだ。先生の役にも立てない。トレーナーさんには相応しくない。部屋でひとりぼっち。陽が落ちるのを待つだけ。これからの僕はどうなっていくんだろう。そんな不安がふわふわと漂っているんだ。

 道端に大きな水たまりができている。顔を近づけて覗き込む。雨粒に歪められながらも、ぼんやりと僕の姿が映し出される。なんだか、みすぼらしいなあ。情けないよ。舐めてみると、土臭い味がした。やめておけばよかったと、舌を引っ込める。憎たらしい味が消えるように、一生懸命、口内に舌を擦り続けた。荒々しく怒る川を眺めながら、そんな意味のないことで気を紛らわす。

 いや、意味はあったのかもしれない。

 視線の先の川、誰かが溺れて、もがいているのが見える。

 子どもだ。たぶん、僕と変わらないくらいの小さな子どもだ。なんとか逃げようと、腕をばたばたと振り回している。このままでは流されてしまう。見殺しにできない、とか、どうしたら助けられる、とか、そんなことを考える暇もなく、僕は川に飛び込んでいた。想像の何倍も流れが激しい。無謀だったかもしれないと思えるほどに。泳ぎの経験なんてなかった。けれど、意外なことに少しずつ進んでいる。こんな才能もあったなんて思わなかった。これだけ才能に溢れた僕なら、ぜったいにこの子を助けられるはずだ。

 なんとか子どもまで辿り着く。僕のからだにしがみついてほしい、そう思ったけれど、すでに子どもはぐったりしている。掴む体力も残っていないのかも。僕が川岸まで引っ張っていくしかない。いまも水の流れは激しく、ざあざあと轟音を唸らせている。口の中に滑り込む水に、嫌悪感をおぼえる。じゃりじゃりと異物が喉に流れ込んできて、飲んでは吐いてを繰り返す。土と草と、間違いなく飲んではいけない味が混ざり合って、意識が朦朧とする。何度か流されてきたものにぶつかり、肩や頭を痛めた。それでも、歯が砕けそうになるほど食いしばり、あと少しの距離にある川岸までもがき続ける。

 もうちょっと、もうちょっとだ。こんな僕でも誰かを助けられるんだ。だれかのために、きっと僕は存在しているはずなんだ。なにもない日常を過ごしてきたぶん、いまになって大きな波がやってきたんだ。これを乗り越えれば、僕は成長できる。そしたら、先生と一度、しっかり話をしてみよう。トレーナーさんには、ちゃんと謝らないと。獣医にもなりたいし、野球選手にもなりたい。やることがいっぱいだ。


 クリーム色の部屋。視界がかすむけれど、銀色の筒や白い箱、真っ暗な画面のモニター。誰か立っている。顔が見えるほどの小さな子どもと、腰までしか見えない大きな大人だ。大人は、顔を見なくてもわかる。たぶん、先生だ。いつもの見慣れた先生の服装だ。なにか声をかけたい。でも、口を覆うマスクが邪魔でなにも伝えられない。いや、マスクがなくても声が出ないのかも。歯がゆいな。

「!」

 なにか話しかけてくれているのがわかる。先生の声かな。よく聞こえないよ。もう少しはっきりと、焦らずにしゃべってくれたらいいのに。先生らしくない。子どもの表情はよくわからないけれど、僕の顔を覗き込んでいる。もしかして、もしかして、溺れていた子どもかな。ふつうに立てているんだ。元気そうだね。良かった。助かったんだ。

 からだに力が入らないし、なんだか眠い。このまま眠ってしまうのは、言い表せない怖さがある。同時に安堵感もある。ひょっとしたら、目を閉じると、僕は僕でいられなくなるかもしれない。そんな気もする。でも、それもそれでいいかなって思える。まだまだやりたいことはあるけれど、それをかき消すほどに、達成感に満ちているんだ。あんなにたいへんな出来事を乗り越えることができたんだから。子どもも生きている。これ以上の幸福ってないんじゃないかな、そう思う。だったら、そんな気持ちのまま眠るのもいいんじゃないかな、そう思う。一日の終わりは幸せなままがいいからね。

 先生はきっと大丈夫。僕が先生を支えてきた、ってそんなふうには思えない、よくできた人だから。いままで、先生とはいろいろあって、たくさん助けてもらった。いまはそのひとつひとつを全部思い出して感じたことを口に出したいけれど、なにひとつ言葉にできそうにない。せめて、感謝だけでも言わないと。

 どうだろう、先生に聞こえたかな。ありがとうって言ったんだけれど、うまく喉を鳴らせなかったかも。いまはこれでいいや。起きたらまた伝えればいい。少しだけ眠ろう。目を閉じると、なんだか気持ちが良いんだよ。


    ◇


「お先に失礼します」

「ああ、おつかれさま、気を付けて帰ってね」

 本日の仕事も終えたので、スタッフには上がってもらった。最近はどうにも足が重く感じてしまう。からだも硬くなってしまった。出歩かず、このままゆったりと夜まで過ごしたいところではあるが、今日はお客さまがもうひとり来るのだった。私の個人的なお客さまだ。将来有望な青年だ。

 彼も大きくなったものだ。彼がまだ小学生であった頃から知っている。その彼も、今では聡明で熱意のある若者となり、未来が楽しみで仕方がない。どうやら、私を慕ってくれているようで、恥ずかしくも有難いばかりだ。むしろ、私のほうこそ、彼に元気をもらっている。

 インターホンが鳴った。

 今日は彼と河川敷へ散歩に行くのだ。彼も私も思い出のある場所。苦くもあるが、優しい思い出だ。我々にとってお決まりの散歩コースとなっている。二人で歩きながら、私の仕事の話や、彼の学校の話をするのだ。

小治しょうじくんも、もうすぐ大学生かあ、獣医学部に決まったのだろう?」

「はい、でもたいへんなのはこれからですよね、がんばります」

「たしかにねえ、だけど入学が決まっただけでも大したものだよ」

織雄おりお先生と一緒に働きたいので、僕が資格とるまで引退しないでくださいね」

「学校は私なんかより凄い人だらけだと思うけどねえ、だけど嬉しいよ」

 河川敷、とある場所に到着する。

 あの嵐の日、私は駆けずり回った。冬助ふゆすけが出て行ってしまい、探し回っていた。もしかすると、冬助ふゆすけの好きな河川敷かもしれない。そう思ったのは、根拠のない単なる直感でしかなかった。そして、この場所で倒れる冬助ふゆすけ小治しょうじくんを見つけたのだ。いまでも光景が鮮明に思い出される。

「ここは特別な場所だね、小治しょうじくんにとって、大きな意味のある場所だ」

「そうですね、ここは僕が獣医を目指すきっかけになった場所です」

「まさか本当に実現するなんてね、まだ確定ではないが、君なら絶対になれる気がしてくるよ」

「当たり前です、僕は冬助ふゆすけのような犬をできる限り助けたいって思ったのですから」

「ありがとう、あいつも喜んでいるだろうね、冬助ふゆすけは賢くて優しくて、本当に、我が子のような存在だったよ」

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