『貨幣は信用を知らない』 ─ 鉱石通貨から始まる信用経済ファンタジー
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第1話信用がなければ、信用に価値もない。
さっきまで俺は、駅のホームを全力疾走していた。
終電にギリギリで飛び乗り、息を整えながらスマホの画面を開いた。
口座残高は、23,1770円。クレジットの引き落としを考えると、余裕なんて一円もなかった。
証券会社で馬車馬のごとく働かされ、日々何千万というお金を動かしているというのに。
人はまばらで朝と違いガラガラな車内。
今日も会社に潰されず済んだ、そう思いながら特等席に身体を沈めた。
やがて視界がぐらつき、まぶたが落ちる。
次に目を覚ましたとき、そこは見たこともない石畳の路地裏だった。
石畳を叩く馬蹄の音。小麦の焦げた匂い。知らない言語のざわめき。
まるで、中世ヨーロッパのど真ん中にでも放り込まれたようだった。
状況はつかめないが不思議と意識ははっきりしている。
「……これが噂の明晰夢ってやつか?」
今までの激務で疲れが溜まっているのだろう。
そう思えば納得がいく、むしろようやく得られた休暇かもしれない。
意識があるなら好都合。
ここで少しくらい夢を楽しんでも、バチは当たらないだろう。
だが、そんな楽観的な考えはすぐに打ち砕かれることになる。
空腹に耐えかねて屋台でパンを買おうと、財布から1000円札を差し出したその瞬間、店主の目が細くなった。
1000円札を出しても露天商の男は「それ、ただの紙じゃねえか」と笑い飛ばした。
どうやらこの世界では、日本円は通貨としての価値がないらしい。
「このパンが欲しいならルーク銅貨三枚だ」
焦って、最も銅貨に近い10円玉を差し出してみた。
だが、店主は眉をひそめるばかり。
「なんだ?どこの通貨だそれ」と首をかしげる。
10円玉を天秤に載せてじっと睨みつけている。
不思議そうにじっと眺めていると「他の国の銅貨はこうやって重さを測って、ルーク銅貨と等価かどうか確かめるんだよ」そう教えてくれた。
つまり、この世界の通貨は物理的な質量が価値そのものらしい。
信用でも、国家の後ろ盾でもない。貨幣はあくまで『金属そのものの価値』。
「見たところ銅貨みたいだしまあいい。今回はその銅貨三枚で売ってやるよ」
そう言って渡されたパンは、小ぶりで焼き目の香ばしい素朴なものだった。
焼きたてのパンをかじりながら、人混みから少し離れた路地裏に足を向けていた。
まだ状況を整理できていない。通貨の概念が現実とあまりに違いすぎる。
目に見える価値、素材としての金属が通貨の価値を決める。
信用という概念がないこの世界では、紙幣もデジタル通貨もただのゴミだ。
「……つまり“信用”が存在してないってことか」
ふと、つぶやくと、自分でもその言葉の重大さに気づく。
信用がなければ、信用に価値もない。
だとしたら、この世界はまだ本当の経済を知らないのだろう。
俺たちの社会は、見えない約束でできていたんだと、改めて思い知らされる。
誰もあとで払うを信じない。誰も将来返すに期待しない。だから、誰も夢を見ない
今この世界に、それはない。だからこそ、この社会には未来がない気がした。
でもこの世界には、見えないものを信じる習慣がない。だから、未来も約束されない。
見知らぬ石畳の先に、そうした現実がひしひしと広がっているような気がした。
そんな思考のなか、物陰に人影を見つけた。
誰かが倒れている。
小柄な少女だった。年のころは十代半ば。ボロ布のようなワンピースは泥にまみれ、足元は裸足。
頬はやせこけ、髪は乾いた藁のようにパサついている。
「……おい、大丈夫か?」
声をかけても、返事はない。
近づくと、身をすくませて、持っていた布袋を強く抱え込んだ。
「奪わないで……これは、私のだから」
「誰も取らないよ」
少女は、訝しげに俺を見た。人間を見る目じゃない。
まるで野良犬のように、こちらを疑う目だった。
「……あなた、お金持ってるの?」
「違う国の硬貨が少しだけ。たぶん、もうほとんど価値はない」
彼女は肩をすくめた。
「だったら、ここではあなたもない人ね。じゃあ、同じか」
「ない人?」
「価値がないって意味。働けない、払えない、保証もないそういう人たち。私は、ない人そう呼ばれているわ」
その言葉が、思った以上に重かった。
「……何でそんなことに?」
聞いていいのかわからなかったが、ふと言葉が出てしまった。
「父さんが鉱山の仲買いで失敗したの。負債を返す代わりに、私が引き取られた」
彼女の目に涙はなかった。
泣くのを通り越して、何も感じないように見える。
「働いてるの?」
「ええ。だけど、逃げたら家族に倍返しって言われてるから、逃げることもできない」
その仕組みに言葉を失った。
「じゃあ、何か食べる?」
俺は、さっき買ったパンを差し出した。少女はじっとそれを見つめた。
「……交換条件は?」
「ない。ただの贈り物」
少女はわずかに目を見開きふとつぶやく。
「あなた、変な人ね」
「かもな。でも、信用がゼロなら信じてもらえるようにするしかないだろ」
少女はその言葉を反芻するように繰り返した。
「……しんよう……」
その瞬間、たぶん俺の中で何かが決まった。
この世界には、信用がない。なら、それを作ることから始めればいい。
誰も知らない経済のかたちを、この少女と一緒に。
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