#8 皐月の如く走れ


 隣に座る小宮はあれから見せつけるかのように不機嫌そうなオーラを放っている。

 なんとも言いづらい居心地の悪さを感じて席を少し離したところで、午前中最後の玉入れ競技が始まった。


 ただ玉入れに関しては正直そこまでやる気はない。なんたって団体競技だし、玉を適当に籠へ投げこむだけのエンタメ性の強い種目だから冬佳へのアピールにもならねえし。適当にやるポーズだけ見せることにした。

 籠に向かって球をぽいぽいと投げるフリだけしていたら、いつの間にか笛が鳴り響き時間切れになっていた。

 体育委員が籠から白球を大きく空に放り投げて数える。白組は二番目に球が尽きた。つまり三位。正直手応えが分かりにくい競技だから「ほーん、そうなのか」と頷くだけで特に凹むこともなく昼休憩になった。


 多分冬佳は俺の事を探しに来るだろうからクラスで騒がれないように早いうちにこちらから見つけ出さないと、なんて考えている俺の視界が唐突に暗闇に覆われた。甘くフローラルな女の子らしい香りが鼻孔をくすぐる。


「誰でしょー」

「冬佳だろ。そういうの良いから昼飯食べに行くぞ」

「さっすが! その塩対応とか分かってるじゃん」


 視界を覆い隠すように当てられた手を剥がせば背後に引っ付くように冬佳がクスクスと笑う。

 ……ぶっちゃけ、この学校で俺にこんな直接的な悪戯をしてくる人間など一人たりともいないので消去法的に冬佳しかいないだけだったのだが、それは妹の笑顔を守るために黙っておく。どうも冬佳は自身の悪戯に気付いたことよりもちょっぴり邪険にされた方に妹としての愉悦感を覚えているようだしな。妹にしてから知ったのだが冬佳はこういう若干M気質なところがあった。


 俺が前を歩いていれば早歩きで冬佳が俺の隣に並んできた。


「お昼なら私作ってきたよ。何処か涼しい場所で食べよ」

「お、いいな。冬佳の料理美味いからな。んで今日の献立は?」

「その聞き方は毎日私がお兄ちゃんのご飯作ってるみたいじゃん。卵焼きとか鶏むね肉とか、あとブロッコリーかな」

「見事に筋トレ上級者の昼飯ビルドじゃん」

「いっぱい食べてモリモリ筋肉蓄えるんだよ……ほら嫌な顔しない! それでも私のお兄ちゃんですかー!」

「悪い悪い、つい本音が……」

「しっかりしてよ私のお兄ちゃん」


 ぷんすか怒る冬佳に謝罪の意を込めて頭を撫でる。それで仄かに怒った素振りを見せつつも表情を緩めるのだから愛らしい。最近は完全に俺の妹として順応してきている冬佳である。……順応ってなんだ? なんだか深く考えたら負けな気がする。


 途中で冬佳が弁当箱をピックアップするために観客席へ立ち寄りつつ、冬佳の存在をあまり大っぴらにしたくなかった俺は校舎裏へと足を運ぶ。ここならば体育祭の今でもあまり賑わっておらず、なおかつこの時間帯ならば校舎棟の影を被って木陰になっているからそこそこ涼しい。


「レジャーシートもあるからね」


 そう言って冬佳は猫柄のプリントが入った大きめのトートバッグから青いレジャーシートを取り出した。完全にこの状況を読んでいたみたいでとても準備が良い。

 礼を言ってその上に座れば冬佳が隣に座ってきた。ぽんぽんと自身の膝を叩いて膝枕をしようとしてきたが頭を振って否定しておく。そんなところ見られでもしたら絶対に勘違いされるっての。


「連れないなぁ」

「しょうがないだろ……というか普段からやってないのに何で今日に限ってそんなことするんだよ」

「マーキングするのにいいシチュエーションだなあって」

「いやどういう意味? ともかくやらないからな絶対に」

「ケチ」


 ぷくぅっと頬を膨らませた。勘弁してくれ。そりゃ俺だって大々的に冬佳を妹扱いするのに異存は無いが、現実的には難しいんだよ。特に冬佳は美少女で目立つのにそんな恋人みたいな真似をしていれば確実に翌日俺はクラスで問い詰められる。


「全くお兄ちゃんは恥ずかしがり屋だね。まあいいや。じゃあお弁当食べようか」


 なぜか俺が恥ずかしがって断ったと勘違いした冬佳はやれやれと言いたげな顔で頭を振ると、弁当を取り出して得意げに蓋を開けた。

 弁当箱の中から現れたのは「お兄ちゃん、私の為にもっともっと筋トレ頑張ってね」と主張せんばかりに並んだタンパク質豊富なメニューで、思わず顔が引き攣った。

 鳥の胸肉を湯がいたものがメイン料理で、横には卵焼きとゆで卵、それに茹でられたブロッコリーが申し訳程度に彩を添えている。

 ……いや普通に美味そうなんだけどな?

 でもなんというか、圧。

 普通体育祭といったら唐揚げとか白米とかタコさんウインナーとかそれっぽい選択肢は色々あろうだろうにこの献立はなぁ。筋トレと有酸素運動をもっとしろって圧を凄い感じてこう、少し息苦しい。


「味には自信あるからいっぱい食べていっぱい運動してねお兄ちゃん」

「あ、ああ……。いただきます」


 満面な笑顔で筋トレ飯を渡して渡された箸で鶏むね肉を摘まんで口に含んでみる。噛めば肉汁と共に塩ダレの香ばしい味が口内に広がってとても美味い。理想的な料理の腕だ。裏の意図さえ無視すればめっちゃ理想的なんだけどな……。

 複雑な気持ちになりつつ噛みしめていれば少し不安そうに冬佳の瞳が揺れた。


「美味しい?」

「ああ。ちょっとパサつくけどな」

「あ、麦茶あるよ。私の飲みかけだけど」

「やっぱ大丈夫だわ。うん。水飲み場行ってくる」

「も~これくらい普通じゃん、遠慮せず飲みなってほら」


 いや普通じゃないからな! いくら兄妹間で仲良くとも間接キスは無いだろうよ!


 再度断りの言葉を入れて、それでもなお諦めずバッグから水筒を取り出している冬佳を尻目に俺は立ち上がった。もしかして冬佳って俺のこと餌付けしようとしてる?


 少し歩いて体育館横の水飲み場に行くと、熱を帯びて若干熱くなった蛇口をぎゅっと捻る。

 流れ落ちてきた小さな滝を覗き込むように屈んでから水を口に含めば、生温く鉄分混じりの微妙な味が口の中に広がる。老朽化が進む桜山高校の古い水道管の影響だろう。評判が悪いのも納得で、なんなら在校生で常飲している人間は運動部を含めてもほぼほぼ見たことが無い。


 最低限口の中を潤してレジャーシートへと戻ると冬佳はむすっと頬を膨らます。


「お兄ちゃん。私の水筒が飲めないってどういうこと?」


 なんかプンプンと怒っていた。それは酔っ払いの言い分だ。

 取りあえず俺は流れるように横に座る。


「あーブロッコリー美味そうだな。いただきます。うん、美味い。流石冬佳の手料理だ頬が落ちるくらい美味いぞ」

「誤魔化し方雑すぎ! あと塩こしょう以外の味付けしてないブロッコリーを褒められてもあんまり嬉しくない! 妹ポイント減点だからね!」


 げ、マズイ。

 妹ポイントとは俺と冬佳の間のみでやり取りされているローカルポイント制度だ。妹ポイントを消費することで普段なら出来ないような多少無茶な命令をすることが出来たりする。因みに反対にお兄ちゃんポイントなるものもあってそっちは反対に俺が冬佳の無茶を聞くために使用されるポイントだ。今のところはお互いに様子を窺い合っているが命令の応酬が繰り広げられるのは時間の問題だと俺は睨んでいる。


「いやいや冬佳、お前は勘違いをしてる!」

「勘違いだって?」

「茹でたブロッコリーを見て「ただ茹でただけじゃん」とか考えるのは料理素人のエアプ妄言だ! 実際にやってみると意外と茹で上がったタイミングが分からずについ茹ですぎてぐしょぐしょになるんだよ! 実は簡単にも見える調理法にも繊細な技術と匠の経験が求められているって俺は妹を評価したい!」

「分かってるじゃんお兄ちゃん。それはそれとして減点は減点だからね」


 小首を傾げる冬佳に弁明してみたがダメだった。ブロッコリーじゃなくてもう少し褒めやすいおかずを食べておくべきだったな。






★───★






 冬佳の弁当を腹に入れ休憩が終わると早速、次種目である1000m走が始まるアナウンスが鳴った。これが今回の本命だ。このためにここ一週間のランニングは1000mという距離を意識してトレーニングを重ねてきた。

 1000mは1グループ凡そ30人程度で、3つのグループに分けられた。俺は1走目のグループだ。周囲を見てみる。陸上部の早い奴とかいたら警戒しておこうと思ったんだが学年もごちゃ混ぜで流石に分からないな。それにマークすべきは陸上部だけじゃない。野球部とかサッカー部にも俊足を誇る生徒はいるわけだし、そもそもこの人数でターゲットを絞るのはちょっと現実的じゃない。


 作戦はとにかく前へ。これに尽きる。30人という人数だと一度後れを取ってしまえば先頭へと躍り出ることはかなり難しいだろう。

 スタート地点も出来る限り前方に位置取ることも出来た。

 あとはスタートダッシュだけだな。今度は失敗するもんかよ。


 白線やや後ろで構える。

 一瞬の静寂を切り裂くようにピストルの火薬の音が空気を揺さぶった。


 俺は早速ペースを無視して先頭集団の一人を追い抜いた。長距離走ならばペース管理が大事かもしれないが、1000mで最も重要なのは位置取りだ。楕円上の400m陸上トラック上だと前方に人が居る状態で追い抜くことはそう容易じゃない。更に所々昨日の雨でまだぬかるんでいる地面もあって、最短コースで走れないのも厄介だ。泥だまりを無理矢理踏んでしまえば足を滑らせるリスクがある。加えて単純に汚れたくないという意思もあるだろう。全員が泥を避けて乾いた地面を選んで走るから余計にコースが限定されて追い越しが難しくなっている。


 これじゃジリ貧だ。くそこうなったら強引に外側から膨らんで追い越してやる!

 加速した俺に合わせるように、一つ前を走る生徒がペースを上げて俺の追い抜きを身体を使ってブロックしてきた。くそ、小賢しいことするなあ、ただの体育祭の一競技なのに!

 抜き方を試行錯誤している内にすぐに中間地点が経過。残り500m。

 現在先頭集団に位置する俺の前には5人ほど。その内一人は集団から少々抜きん出て一人旅の真っ最中だ。


 正攻法じゃ勝てない。スタミナは余裕でも位置がマズイ。ここにいたら最終加速ポイントで前後に挟まれて潰される。挽回する程の足の速さも俺には無い。


 ───ああクソ、わーったよ!

 見てるか冬佳! 超超ウルトラスーパーギガンティックついでに玲も!

 これが兄貴ってやつだ!


「うおぉぉぉ!」


 思わず自然と口が開いた。

 絶対にやりたくなかった禁じ手……インコースだ!

 ストライドを大きくして、ぬかるみや水溜りに足を踏み入れる回数を減らしながら最終コーナーを回る。さながら皐月のゴールドシップ。こんなところでゲーム知識が役に立つなんてな!


 足を滑らせないように踏ん張りながら3人を抜いた。普段から体幹を鍛えているのが功を奏したのかもしれないな。何とか泥に足を取られずに今のところは走れている。

 

 インコース内の多くはぬかるんでいるから泥はびちゃびちゃ跳ねるし、足元は跳ね返った泥水が絡みついて不快感が神経を蝕む。

 だがもう僅かな辛抱だ。

 コーナーが終わる一瞬に俺は走りながら軽くステップでインコースを抜けて、今、2位を抜いて先頭の走者が見える!


 ここまで来たらもう持てる力を、二か月分のトレーニングの成果を上げるだけ!

 行ける! 背中を捉えた!


 そう思った瞬間、最先頭の背中が近づいてきた。

 露骨な減速を不思議に思うが、すぐに気づいた。

 ……1000m、もう終わりかよ。


 非常に惜しいことにこのグループで俺は2位だった。運動歴を考えれば大健闘と言ってもいいかもしれないけど、あともう少しで1位だったと思うとかなり悔しい。

 ただまあ、運動部も混じった30人の中で準優勝であれば冬佳的にも納得の内容なんじゃないだろうか?


「凄いじゃん新四谷。尚原なおはらに競り合うなんて」

「……尚原?」


 自席に帰った俺はすっかり機嫌がニュートラルになったらしい小宮に話しかけられる。

 尚原って言われても誰だろうか。全く分からん。

 俺の宇宙猫顔を見た小宮が呆れたように補足した。


「知らないの? 陸上部で去年唯一インハイ出場した先輩、専門は5000mだけど1500mも部内最速のバケモンだよ」

「そんな人がいたのかウチの高校」

「去年校舎に垂れ幕掛かってたの見なかったの? 陸上部でも10年ぶりのインハイ出場者とかなんとかで結構話題になったのに」


 まったく存じていませんでした。そういう校内の掲示物には我ながら一切の関心が向かない性格である。

 ともかくそんな早い先輩だったのか俺の対戦相手。そりゃ勝てんわけだ。


「競り合うって言っても裏技使ったけどな」

「新四谷は泥で汚れるのも厭わず、ぬかるみを踏んで転倒するリスクを冒してインを攻めた。他の走者は出来たのにやらなかった。その違いを裏技なんて言葉で片付けるのは私は好きじゃない」

「……もしかして俺の事を結構買ってくれてたり?」


 だとしたら意外だ。やっぱり小宮って鉄の印象あるから。主に対応が鉄。打っても全然響いてこない。俺じゃないけどクラスメイトに話しかけられた時の小宮の反応とか塩過ぎて胃が痛いくらいだし。

 小宮はその言葉に素っ気なく斜め上を見上げながら耳にかかった髪の毛を触る。


「まあ、キモオタって評価は変わったかも。今後は新四谷のことオタクだと思うことにする」

「いや……あんま変わってなくね? 控訴だ控訴、風評被害だっての」

「だってオタクじゃん。何か裸体に近い女が挿絵に入った本とか読んでるし」


 そういや小宮って俺の後ろの席だから表紙にカバー掛けて読んでたラノベの中身が見えてたのか。

 いや普通に恥ずかしいって。

 ラノベを読まれてること言われちゃなんも反論できねえよ。

 俺は黙った。


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