8月のステレオ

涼夏。

ステレオの音と君の声

八月の空は、いつだって、ちょっと不機嫌そうだ。


 東京を離れ、祖父母の住む町へとやって来た夏葵なつきは、海沿いを走る電車の窓から、濃い群青と白の雲がせめぎ合う空を眺めていた。セミの声がうるさい。風が生ぬるい。けれど、どこか懐かしくて、少しだけホッとする。音楽を聴くときに、最初に訪れる“無音”みたいな静けさだ。


 駅を降りて数分、古びた商店街を抜けると小さな木造の家が見えてきた。家の周りを囲む低い生垣に、軒下に干された洗濯物。昔と何も変わらない。


「ただいま」と少し遠慮がちに玄関をくぐると、祖父母が笑顔で迎えてくれた。


「よく来たなあ、夏葵。暑かっただろう。」

「ごはん炊けてるよ。お腹すいてるでしょ?」


 ――こうして、今年の夏が、またひとつ始まった。


 






 夜、ひとりで部屋にこもってパソコンを開く。音楽ソフトを立ち上げるが指はまったく動かない。どこかで聴いたようなフレーズしか浮かばない。再生ボタンを押してみても、空っぽな音が鳴るばかりだった。


「……ダメだなぁ。」


 机に肘をつき、ため息をついた。

ずっとこんな調子だ。メロディが思いつかない。歌詞も浮かばない。曲を作ることが好きだったはずなのに、最近はそれすらも億劫になっていた。


 イヤホンを耳に差し込もうとして、やめた。今日は外の音も一緒に聴いていたい、そんな気分だった。夏葵は机の横に置いたスピーカーの電源を入れる。お気に入りのインスト曲を選び、再生ボタンを押す。


 澄んだピアノの音が部屋に満ちていく。窓の向こう、夜風がカーテンをやさしく揺らした。


 ――そのときだった。


「いい曲、流してるね。」


 不意に、スピーカーとは違う方向から声が聞こえた。


 カーテンをめくり、そっと外を覗く。白いワンピースを着た女の子が、生垣の向こうに立っていた。こちらに背を向けて、どこか遠くを見ている。


「…誰?」


 つぶやいた声は、もちろん届かない。彼女はふと振り返ると、夏葵が覗いている窓のほうに視線を上げた。


 目が合った。


 まるで最初からそこにいたかのように、まるでずっと待っていたかのように。


 けれど次の瞬間、彼女は笑って踵を返すとゆっくりと小道を歩いて行ってしまった。足音は波の音にかき消されて、すぐに姿が見えなくなった。


 何だったんだろう、と思いながらも、夏葵は窓を閉めなかった。ステレオから流れていた曲は、いつの間にか終わっていた。

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