第3話 唇が命令に従うとき
その指先が顎に触れた瞬間、全身に緊張が走った。
拒む理由も、抗う言葉も、すでにどこかに置き忘れてしまったようだった。
「唇で……応えてください」
穏やかに告げられた一言は、命令よりも残酷だった。
逃げ道を用意していないのに、どこか“選ばせたふり”をする、優しい支配。
沙耶は膝をついた。
スカートの裾が床に触れ、喉が自然と乾く。
けれど、その先にある“熱”の存在が、なぜか恐ろしくも、ほんの少しだけ、待ち遠しいと思ってしまった。
彼が立ち上がる音。
空気が一段濃くなる。スーツの前が静かに開かれる気配がして、彼女は無意識に目を伏せた。
「緊張してますか?」
その問いには、返事をする隙がなかった。
視界の端に、重さと温度の違う影が差し込む。近い。すぐ、目の前に――
「口、少しだけ……開けて」
静かに、囁くように。
けれど沙耶の耳には、それが空気を震わせるような力を持って届いた。
ゆっくりと、彼女の唇が開かれる。
何かが触れる。その感触は熱く、柔らかく、そして――確かな存在感を持っていた。
触れたところから、舌の先まで、じんわりと温もりが広がっていく。
喉の奥までは届かない。けれど、口内を満たすほどの圧が、息を奪う。
唇の奥にあるものの形を、彼女は何も見なくても理解してしまっていた。
(今、わたしの中に……)
口元に当たるその質感に合わせ、彼女の舌がわずかに動く。
それは本能か、諦めか、あるいは、従順な快感か。
彼の指が髪に触れ、もう片方の手が肩から腕へ、そして手首を取る。
次に感じたのは、違う男の体温だった。
その手は彼女の指を導き、ゆっくりと別の熱へ触れさせていく。
指先に伝わる、確かな硬さと脈動。
どちらの手にも、重みが乗った。
唇には、最初の熱。両手には、別の温もり。
「まだ……自分で動いてないですよ?」
その声に、沙耶の身体がわずかに震えた。
指先がゆっくりと滑り始める。
唇が自分からわずかにすぼまり、舌が舐めるように当たる。
(なんで……動いてるの、わたし)
羞恥は、すでに体温に溶けていた。
今、ここで動いているのは、言われたからじゃない。自分の中にある、何かがそうさせている――
音はない。
けれど、濡れた感触だけが、静かな車内に重く沈んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます