球場の守護霊

萩原菜月

球場の守護霊

 パーンとボールがバットの芯に当たる音が響いて、悲鳴の上がるスタンドに吸い込まれていった。


 テレビで見ていた高校野球では、もっと硬質な小気味良い音が響いていたから、少しだけ物足りなさを感じてしまう。せっかくのホームランが飛び出すたびに、そんな微妙な違和感を覚えてしまうなんて。もったいなさも感じるけれど、それでも彩香が叔母の誘いを断らずドームを訪れるようになって、もう五回目だった。


 相手チームの、たったいまホームランを打ったバッターが悠々とベースを一周してホームに戻ってくるのを視界の端に収めながら、隣に座る叔母を見上げた。


 大きくため息を吐いてビールを飲み干す叔母のため息は、とても重く聞こえたけれど、それは球場が一斉に吐いたため息だったから、大きく聞こえたのかもしれない。試合は六回表。ここまで両チーム無得点の投手戦だった。


 が、流れが変わるかもしれない。


 たった5回しか来ていないというのに、そんな通みたいなことを思ってしまうのは、毎回叔母の解説を聞きながら試合を観ていたからだろう。


 彩香のそんな嫌な予感を肯定するように、次の打者も初球を打って、ボールは外野手の頭を超えた。再び、喉を引っ詰めたような悲鳴が響く。追って球場全体からため息が溢れた。


 叔母だけではなく、まわりに座っている大人たちの間にも同様にひりついた空気が流れる。レフトスタンドの一角を占める相手チームの応援団の声が、一際大きくなった気がした。


 ちらりと視線を内野席と外野席のちょうど境目あたりに走らせる。やや上段の、オレンジ色のシートに深く身を沈めるように、その人は座っていた。





 彩香が初めて叔母に連れられてドームにやってきたのは、三年前、中学一年の夏休みだった。それまで野球を見たこともなかったが、たまたま母を訪ねてやってきていた叔母に、突然「チケットあるけど一緒に行く?」と聞かれた。「行かない、興味ない」と答える前に、横から母が「行くわけないじゃない、興味ないでしょ」と言ったので、思わず「行ってみたい」と答えていた。今思えば、捻くれた反抗心だ。


 球場に向かう道すがら、叔母は簡単にルールを説明して、着くなりグッズショップでオレンジ色のタオルを買ってくれた。ファンは贔屓の選手の名前が書かれたタオルを持って応援し、ヒットが出るとそれを回すのだという。なんだか昔の歌手のライブみたい。そんなことを思っていると「彩香はまだ誰も知らないからね」とチーム名の書かれたタオルを渡された。


「好きな選手ができたら買ってあげる」


 叔母はそう言ったけれど、ルールもわからない野球を見ているのは退屈だった。


 とても、好きな選手ができそうもない。淡々とバッターが登場して、打ったり打たなかったりして次の打者に替わる。そしてアウトが溜まれば攻守が交代する。これを延々と九回分続けるのだ。


 着いてきたのを後悔し始めた途端、比較的緩やかだった試合の流れが動いて、一気にまわりの空気が変わった。それまでスマートフォンを手になんとなく試合を眺めていた観客の視線が、一気にグラウンドに集まっている。


 その次の瞬間、彩香の体感も変わった。一点を追う試合中盤、絶好のチャンスで登場した代打の選手に贈られた歓声。全員が声を合わせているんじゃないかと思うような応援歌の大合唱。


 そして彼がヒット打った瞬間の、地面が揺れてるんじゃないかと思うほどの地響きに、彩香は目を白黒させた。叔母も、反対側の隣に座っていたおじさんも、前も後ろも全員立ち上がって、ぐるぐるとオレンジ色のタオルを振り回している。


 突然視界のあちこちで狂気乱舞する大人たちが現れて、彩香はただ圧倒された。けれど気づけば、それまで首にかけているだけだったタオルを、彩香も振り回していた。本当に、ロックバンドのライブのようだ。自然と口から「ヒュー!」という歓声が溢れて、そんな自分にびっくりした。


 ふと我に返って球場を見渡すと、ふたブロック先、視線の先に同じようにタオルを回している女性がいた。結構な年配だ。七十、もしかしたら八十に近いかもしれない。自分の祖母よりだいぶ年上と思われるその女性は、ショートカットに揃えた白髪に、ユニフォームを着ていた。華奢な体のせいか、ユニフォームはだぼだぼで、逆にそういう着こなしなのかと思うくらい。背番号は……たぶん8。少し文字が古く感じるのは、昔のデザインなのだろうか。オレンジ色の大きなタオルを肩からかけ、手には振り回す用なのか、同じくオレンジのタオル、首にはこれまたオレンジのメガホンを下げていた。まさに全身オレンジ。


「ねえ、あそこにいる人、結構年配だけど元気だね」


 小声で話しかけると、叔母は興奮しているのか、「年齢なんて関係ないでしょ」と言って、彩香が見ている方向に視線をやった。


「あの辺、年間シートだから、生粋のファンが集まってるのよ」


 年間シートは、その名の通りホーム球場の年間全試合を同じ席で見られるチケットらしい。


「え、じゃああのおばあさん、全試合見てるのかな」

「どうかな、知り合いが契約していて、それを貰ったって可能性もあるけど」


 でも今のあの盛り上がり方を見ると、根強いファンのようにも見える。


「叔母さんは、年間シート買ってないの」

「無理無理、いくらすると思ってんの。だいたい全試合見に来れないし」


 年間シートの対象になっている試合は六十試合以上らしい。入り口で配られたパンフレットを、退屈しのぎに熟読したから、その辺は理解していた。確かに、社会人には厳しいかもしれない。



 そこから彩香が真剣に試合を見始めたのを察したのか、横で叔母が、ルールから選手の特徴までつきっきりで説明してくれたので、試合が終わる頃にはチームに愛着が湧くようになっていた。それに、年間シートのオレンジの女性の様子も気になって、ワンプレーが終わるたびについつい見てしまう。


 おばあさん、と呼ぶのも申し訳ない気がして、彩香はこっそりその人をオレンジさん、と呼ぶことにした。


 オレンジさん、は顔が広いらしい。通りかかった人にしょっちゅうお辞儀をされたり、話しかけられたりしていた。有名なファンなのだろうか。どんな界隈にも有名なファンはいる。例えばアイドルの握手会に何度も通って、顔見知りになるような人とか。


 オレンジさんもあの歳までずっとファンなのだとしたら、それは有名になるだろう。

 


「楽しかった?」


 帰り道、叔母に尋ねられて彩香は素直に頷いた。


「楽しかったし、気持ちよかった」

「デビューが勝ち試合で恵まれてるよ、彩香は」

「そうなの」

「そりゃ片方勝ったら相手は負けるわけだから。負けた時は悔しいわよ、帰り道イライラしちゃう」


 ドームの収容人数は四万人以上。それだけの人が喜んだり悔しんだりして、球場には感情が渦巻いていた。


 それから、なんとなくネットで試合結果を見たり、ハイライトを見る習慣がついた。別に大ファンってわけじゃないけど、せっかく感じたあの高揚感を忘れたくなかった。


 そして翌年のゴールデンウィークと夏休み、それぞれまたチケットを持って現れた叔母が、ドームに連れていってくれた。二回目は「一緒に行く? ではなくて、行くでしょ」と断言されたけれど、彩香も迷うことなく頷いた。母が横で「嫌だわあ、野球なんかにハマっちゃって」と顔を顰めたので、もちろん無視した。


 叔母は、年間シートは買わないまでも、ファンクラブに入るほどのファンで、1人で観戦することもあれば、知人と連れ立って見に行くこともあるらしい。月に二回ほど通っていると言っていた。そのうちの二回を彩香は叔母に同伴者として選んでもらっているわけだ。


「推し、決めた?」

「まだ。この人っていうひとがいない」


 キャプテンもエースも四番も、みな応援している。でも絶対的な推し、はまだ見つかっていなかった。だから彩香のは応援を始めて三年目なのに、まだチーム名の書かれたタオルを使っている。





 続くバッターに四球を与えたところで、監督が出てきた。ピッチャー交代だ。この隙にトイレへ行こうと彩香は叔母に一言伝えて席を立った。最初はトイレに行くのも売店に行くのも叔母についてきてもらっていたが、今ではすっかり一人行動だ。

 

「ついでに飲み物でも買ってきたら」と叔母が千円札を握らせてくれた。母は受験生になった今年の野球観戦にあまりいい顔をしなかったけれど、球場でのお弁当用にお小遣いは持たせてくれる。と言っても食事代やこういったおやつ代は叔母が出してくれるので、彩香はこっそりお小遣いに追加していた。


 なんでこんなに良くしてくれるの、と尋ねたら、「なんか彩香は私に似た匂いを感じるんだよねえ。だからついついね」と叔母は笑った。


「似てるってこと」

「そう。なんかこう人前で激しく主張しないところとか、人の顔色伺うところとか。楽しいって思うことが少なそうな体温の低さっていうかさ」

「叔母さん、私のこと冷めた人間だって思ってる?」

「それはない。冷めた人間はあんなふうに夢中でタオルを回さないから」

「確かに」

「でもさ、学校でのことはわからないでしょ」


 そう言われて、彩香は思わず息を呑んだ。叔母は、自分のことをわかっている。叔母には、理解されてしまっている。


「こんなに叔母さんにご馳走してもらってるってバレたらお母さん怒るかな」

「そこはバレないようにしてよ。私、これでも結構働いてるんだから。こんな時々の買い食いなんて、お姉ちゃんにぐちぐち言われることじゃないんだからさ」

「ありがと」


 素直にお礼を言って、彩香は席を立った。叔母は大抵一塁側の内野席のチケットを取るから、ここからどういけば最短ルートでトイレに着くかはなんとなくわかっている。けれどふと思い立って、彩香は外野席の方に足を向けた。


 オレンジ色のシートのエリアに入ると、心臓がドキドキと音を立てる。


 別に話しかけようとか思っているわけじゃない。ただちょっとどんな人なのか近くで見てみたい。


 なんとか交代したピッチャーが後続を抑え、攻守が交代する。あちこちで一斉に人が立ち上がり、なんとか避けながら彩香はひたすらオレンジさんの元を目指した。



 彩香がオレンジさんの席の通路へ辿り着こうとしたその時、前を歩いていた男の人が立ち止まってオレンジさんに話しかけた。にこやかに笑って、「今日も勝てますかねえ」なんて言っている。


「もちろん勝つわよ。しっかり応援しないと」


 そう言い放ったオレンジさんの声は、予想していたよりずっと力強かった。大人というより、クラスの明るい女子が話しているような、強さを秘めていた。


「わかってますよ。新しい応援歌だってばっちり覚えてきましたから」


 そういって拳を握ると、男の人は通りすぎていった。オレンジさんはひらひらと手を振って見送っている。仕草のひとつひとつが若々しいなあと思いながら見ていると、ばっちりと目があってしまった。


「あ、す……すみません」


 ただ通りすぎればいいだけなのに、彩香は思わず頭を下げてしまった。


「迷子?」

「違います、トイレに行こうとしただけで」

「ふうん。あっちだけど」


 そう言ってオレンジさんが指差した方向は、彩香がまさに歩いてきた方角だ。


 自分に向けられる声が心なしか低いような気がする。


「すみません。ちょっと、こっちに来てみたかっただけで」


 そうだ、ここから見える風景がどんな感じか知りたかっただけ、と言おうとした瞬間、バーンと音が響いた。球場が歓声に包まれる。


 彩香は慌ててボールの行方を追った。スタンドインはしなかったものの、外野手の頭を超えて、ボールはまだ転がっている。長身で有名な若手選手が快速を飛ばして三塁まで到達した。


「やったやった」


 彩香は咄嗟に肩にかけたタオルを引き抜いて回していた。

 同じくタオルを回していたオレンジさんと、思わず手を合わせる。

 次は四番バッターだ。


「ちょっと、いいところなんだから応援してから行きなよ」


 オレンジさんはそう言うと、彩香を席の方に引っ張った。


 確かに今、目を離すわけにはいかない。お言葉に甘えて通路にはみ出さないように立って手を叩く。オレンジさんはガンガンメガホンを打ち鳴らしていた。


 そしてひょろりと浅いフライが上がった。厳しいか、と誰もが思ったその瞬間、三塁にいた選手はボールがグローブに収まった瞬間、走り出した。ホームベースへのヘッドスライディング。まさか走ると思っていなかったのだろうか、外野からの送球は大きく外れて、無事に一点が入った。


 彩香は夢中で、グラウンドを駆け抜けた選手の名前を叫んだ。


「すごい!すごい!すごい!」

「いやあ、やるねえ」


 ホームに突入した選手は、泥だけのユニフォームで立ち上がった。


 迎えたチームメイトにもみくちゃにされている姿が、眩しい。


「私、推し見つかったかも」

「なんだって」

「ずっと一番応援したい選手を探してたんです。今、一番痺れた」

「へえ、なかなかいい好みしてるじゃない」


 そう言うと、オレンジさんは肩からかけていたメガホンを外し、彩香の首にかけた。


「これ、あげるよ。記念に」

「え」

「タオルは自分で買いなよ」


 彩香は自分の肩にかかったメガホンを打ち鳴らした。ガンガン音がする。メガホンには、たった今彩香の推しになった選手の背番号が記されていた。


「ありがとうございま……」


 そうお礼を伝えようとして、彩香は思わず目を瞬かせた。


 そこには、誰もいなかった。


「なんで」

 



「遅かったじゃない。どうしたの、それ」


 席に戻ると、叔母が目をぱちくりとさせてメガホンを指差した。


 あの後、忽然と消えてしまったオレンジさんを探したけれど、どこにも見当たらなかった。


 彩香が通路を行ったりきたりしているうちに、チームは無事に三点を追加していた。


「メガホン、もらった」

「誰に」

「わからない……」


 呆然と呟く彩香に叔母はビールを飲む手を止めて覗き込んだ。


「大丈夫?」

「ちょっとわからなかったけど、多分大丈夫。あ、でもね私推し見つけた」


 彩香はそう言って、守備のため外野に走ってきた選手を指差した。ユニフォームは泥だらけだ。


「だからタオル買ってくる」

「え、買ってあげるよ」

「大丈夫。これまでのお小遣い貯めてあるし」


 でも守備しているところも見たいから、この回が終わったら売店に急ごうと決めて、グラウンドを見下ろす。


「年に二回じゃなくて、もっとみたいな」


 そう呟くと、叔母は目を見開いてからにやりと笑った。


「飽きるくらい連れてきてあげるわよ」


 叔母さんに任せなさい、と胸を叩く姿に、彩香の頬が緩んだ。

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