静寂への航路:十七歳の遺書と灰色の死神
銀狐
1話 - 灰色に沈む意識と異形の影
冷たさが、意識の淵をゆっくりと侵食していく。水、重く冷たい水が、肺を満たし、思考を鈍らせていく感覚。
最後に見たのは、薄暗い川面の揺らぎと、遠ざかる橋の欄干だった。書き置きは、ちゃんと見つかるだろうか。お父さん、お母さん、ごめんなさい -。
ふっと、重力が消えた。あるいは、別の種類の重力に捉えられたのかもしれない。気づくと、水の中にいたはずの身体は、どこまでも広がる灰色の空間に漂っていた。
音がない。匂いもない。時間の流れさえも曖昧で、まるで巨大な繭の中に閉じ込められたかのような、濃密な静寂と閉塞感が漂っている。
水無月 雫(みなづき しずく)、十七歳。彼女は、もう自分が生きていないことを、朧げに理解していた。
長い間、彼女を苛み続けた苦痛から解放された安堵と、両親への申し訳なさ、そして漠然とした不安が、灰色の中で混ざり合っていく。
(ここは、どこ…?)
戸惑いながら周囲を見渡す雫の視界に、不意に、一つの影が立ち現れた。それは、およそ人間とは思えぬ異様な存在だった。
身の丈はそれほど高くないように見えるが、その存在感は空間を圧するように重い。全身を、光を吸い込むような漆黒のフード付きローブが覆っている。その手には、月光を鈍く反射するような、巨大な大鎌が握られていた。
そして、何よりも目を引くのは、フードの奥深く、暗闇の中に浮かぶ二つの点 -まるで燃える石炭のように、不気味な赤い光を放つ双眸だった。
伝統的な絵画や物語に出てくる「死神」そのものの姿。しかし、雫は恐怖よりも先に、奇妙な既視感と、場違いなほどの静けさをその存在から感じ取った。
威圧的な外見とは裏腹に、その影からは、まるで長年使い古された道具のような、一種の『くたびれた』雰囲気が漂っていたのだ。
死神は、その赤い双眸で雫を一瞥すると、手に持った大鎌を、まるで杖でも立てかけるかのように、無造作に傍らの空間に突き立てた。奇妙なことに、支えもないのに大鎌は倒れることなく、そこに静止している。
そして、ローブの袖から、古びて分厚い、くたびれた帳面を取り出した。その仕草は、威厳ある死神というよりは、どこか役所の窓口で書類を探す係員のそれに似ていた。
「…ふぅ。やはり、この格好は肩が凝る。たまには威厳を出せと上がうるさいのでな、仕方なくだが…実に非効率だ」
声は、乾いていた。ブリキのおもちゃがきしむような、抑揚のない、感情の欠片も感じられない平板な音。その声色は、威圧的な外見とは全く釣り合っておらず、雫の混乱をさらに深めた。
「えっと…あなたは…?」
雫は、か細い声で問いかけた。恐怖よりも、戸惑いと、そして心の奥底から湧き上がる深い疲労感が、彼女の声色を支配していた。
「私は、しがない『案内係』さ。君のような、迷子の魂の『手続き』を手伝っているだけだ。まあ、見ての通り、今日は少々『正装』しているがね。中身は退屈な役人風情だよ」
死神は、帳面をぱらぱらと捲りながら、顔を上げずに答えた。フードの奥の赤い双眸が、帳面の文字を追って微かに動いている。その瞳には、何の感情も読み取れない。ただ、機械的な作業をこなしているだけの、空虚な光があった。
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