テニスコートの誓い
写乱
テニスコートの誓い
梅雨明け宣言が待ち遠しい、七月のある週末。じっとりとした湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、太陽は薄い雲の向こう側で、じりじりと地上を炙っている。そんな気怠い午後に、棚瀬優子は、お気に入りのテニスラケットをバッグに入れ、家を出た。二十代半ば、都内のアパレル企業で働く彼女にとって、週末のテニスは、平日のストレスを発散するための貴重な時間であり、ささやかな楽しみだった。
(今日は、あのサーブ、絶対決めてやるんだから)
最近練習している、新しいフォームのサーブ。それを試したくて、うズウズしていた。予約した公営のテニスコートは、自宅から自転車で十分ほどの距離にある、川沿いの運動公園の中にある。緑が多く、開放的な雰囲気が気に入っていた。
ペダルを漕ぎながら、鼻歌交じりで公園へ向かう。川沿いの道は、心地よい風が吹き抜ける…はずだったが、今日は妙に生臭い匂いが漂っていることに気づいた。
(なんだろう、この匂い…魚でも打ち上げられてるのかな?)
少し眉をひそめながらも、ペダルを漕ぐスピードを上げる。早くコートに着いて、準備運動を始めたい。運動公園の入り口を抜け、目的のテニスコートが見えてきた。しかし、コートに近づくにつれて、優子の足は自然と遅くなっていった。そして、コートの入り口で、完全に足を止めた。
「……な、に……これ……?」
目の前の光景が、信じられなかった。オムニコートの、緑色の人工芝の上が、おびただしい数の、赤黒い塊で埋め尽くされていたのだ。それは、蠢き、重なり合い、カサカサ、ガサガサと、無数の小さな音を立てている。
ザリガニだった。体長10センチほどの、アメリカザリガニの大群。どこから湧いてきたのか、コート全体が、まるで赤い絨毯を敷き詰めたかのように、ザリガニで覆い尽くされている。近くを流れる川の水位が、昨日の局地的な豪雨で一時的に上がり、それに乗じて岸に這い上がり、ここまで移動してきたのだろうか。理由は定かではないが、現実として、優子が楽しみにしていたテニスコートは、無数の甲殻類に占拠されていた。
赤黒い、あるいは少し緑がかった硬質な体。無数にわちゃわちゃと動く細い脚。そして、虚空に向けて威嚇するように突き出された、小さなハサミ。それらが、コート一面で蠢き、ぶつかり合い、奇妙な音を発している。鼻をつく、泥と水生生物特有の生臭さ。それは、優子のテニスへの期待感を、一瞬で不快感と嫌悪感へと変貌させた。
「……嘘でしょ……? せっかく、楽しみにしてたのに……!」
優子の口から、苛立ちと失望の混じった声が漏れた。平日の仕事を乗り切り、やっと迎えた週末。思い切り体を動かして、汗を流したかった。なのに、この有様だ。コートがこれでは、テニスどころではない。予約した時間も、無駄になってしまう。
こみ上げてくるのは、どうしようもない怒りだった。ザリガニに対して、というよりも、この理不尽な状況そのものに対して。なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの? このザリガニども、邪魔! どこかへ行ってよ!
しかし、ザリガニたちは、優子の怒りなど知る由もなく、ただ生存本能に従って、蠢き続けている。その姿が、優子の神経をさらに逆撫でした。
(……許せない)
ふつふつと、黒い感情が腹の底から湧き上がってくる。それは、単なる怒りではなかった。もっと攻撃的で、破壊的な衝動。
(……こいつら、全部、退治してやる……!)
突拍子もない考えだった。しかし、一度そう思うと、もうその考えを抑えることはできなかった。むしろ、そうすることが、今のこの腹立たしい状況に対する、唯一の正しい対処法のように思えた。テニスができないなら、代わりに、この邪魔な生き物を駆逐してやる。そう決意すると、妙に気分が高揚してくるのを感じた。
優子は、自転車をコート脇のフェンスに立てかけると、テニスバッグから着替えを取り出した。テニスコートの隅にある、小さな更衣スペースへ向かう。
彼女は、白いプリーツが入った、ネイビーのテニススコートに着替え、トップスは、シンプルな白のタンクトップを選んだ。そして、白い、くるぶし丈のテニス用のソックスを履き、足元には、いつものテニスシューズを選んだ。白地に青いラインが入った、軽量でグリップ力の高いモデルだ。アッパーは通気性の良いメッシュ素材で、ソールは厚めでクッション性に富み、複雑なステップにも対応できるよう、細かい溝が刻まれている。普段なら、このシューズでコートを駆け回るはずだった。しかし、今日の目的は違う。「ザリガニ退治」だ。
(……この靴で、踏み潰したら、どうなるんだろう……?)
考えが頭をよぎった瞬間、ぞくりとした興奮が背筋を走った。テニスのためにある、この機能的なシューズで、あの汚いザリガニを踏み潰す? 本来の目的とは全く違う、倒錯的な行為。でも、だからこそ、やってみたい。腹立ち紛れに、このシューズを汚して、めちゃくちゃにしてやりたい。そんな破滅的な衝動が、優子を駆り立てた。
彼女は、靴紐をしっかりと結び直した。厚いソールが、地面の感触を程よく遮断しつつも、足裏に確かな存在感を伝えてくる。メッシュ素材が足を柔らかく包み込む。
テニススコートに、タンクトップ。そして、テニスソックスに、テニスシューズ。普段のテニススタイルそのもの。しかし、これから行おうとしている行為を考えると、その姿は異様に見えた。今の優子にとっては、これ以上ないほどの「戦闘服」に思えた。
更衣スペースを出て、再びザリガニで埋め尽くされたコートの前に立つ。深呼吸を一つ。込み上げてくるのは、怒り、興奮、そして、ほんの少しの罪悪感。しかし、もう迷いはなかった。
「……覚悟しなさいよ」
小さく呟き、優子は、右足をコートの中へと踏み出した。
テニスシューズが、コートの人工芝の上に降り立つ。その瞬間、足元で、カサッ、バキッ、という乾いた音と、何か硬いものが砕けるような、鈍い感触があった。見ると、一匹のザリガニが、シューズの真下で、甲羅の一部をひび割れさせていた。厚いソール越しでも、確かな破壊の感触が伝わってくる。
「……!」
意図せず、最初の一匹を「やってしまった」。しかし、それは、これから始まる蹂躙の、ほんの序章に過ぎなかった。
優子は、改めてコート全体を見渡した。足の踏み場もないほど、びっしりと蠢く、赤黒い甲殻類の絨毯。その光景は、嫌悪感を通り越して、もはや壮観ですらあった。そして、その全てが、これから自分の足によって破壊される運命にあるのだと思うと、言いようのない全能感と、残酷な喜びが湧き上がってきた。
「……まずは、手前から、ね」
優子は、独り言を呟きながら、すぐ足元でハサミを振り上げていた、比較的大型のザリガニに狙いを定めた。そして、右足のテニスシューズを、体重を乗せて、ゆっくりと、しかし確実に、踏みつけた。
メキメキッ! グシャッ!
想像していたよりも、はるかに生々しい音が響いた。硬い甲殻が、テニスシューズの厚く、やや幅広のソール全体にかかる圧力によって、抵抗むなしく砕け散る。その下の、柔らかい身と内臓が、ぐちゃり、と潰れる。ソール越しに、硬いものが砕ける振動と、柔らかいものが潰れる感触が、鈍く、しかしはっきりと伝わってきた。まるで、熟れた果実と硬い種を、厚いゴム底で一緒に踏み潰したような、複雑で、不快なはずなのに、妙に鮮明な感触だった。
「……ひっ……!」
思わず、短い悲鳴のような息が漏れた。足を持ち上げると、緑色のコートの上には、赤黒い体液と、白い身、そしてどろりとした黄土色の内臓が混じり合った、無残な染みが広がっていた。砕けた甲羅の破片が、周囲に飛び散っている。そして、優子の白地のテニスシューズの底。そこには、早くも、潰れたザリガニの一部が、べっとりと付着していた。ソールの細かい溝が、潰れた肉片や体液で埋まり始めている。アッパーの白いメッシュ部分にも、赤黒い飛沫が少し付着していた。
(……やった……。本当に、やっちゃった……)
しかし、罪悪感よりも強く感じたのは、怒りが昇華されたような、奇妙な高揚感だった。そして、足裏に残る、あの鈍く生々しい感触。もっと、もっとこの感覚を味わいたい。そんな渇望が、体の奥底から湧き上がってくる。
優子の動きは、ここから一変した。まるでスイッチが入ったかのように、それまでの僅かな躊躇いは消え失せ、怒りと興奮に突き動かされるまま、コートの上を歩き始めた。その歩みは、もはや単なる移動ではない。明確な殺意を持った、破壊のための前進だった。
「邪魔なんだよ、あんたたち!」
悪態をつきながら、優子は、足元のザリガニを、次から次へと踏み潰していく。右足、左足、右足、左足。まるで、リズムを刻むかのように、白と青のテニスシューズが、蠢く赤黒い絨毯の上に、破壊の足跡を刻んでいく。
メキッ! バキッ! グシャッ! ブチュッ!
様々な種類の破砕音が、コート上に響き渡る。厚いソール全体で体重をかけて圧し潰す。つま先部分に力を込め、ザリガニの頭部や胴体をピンポイントで砕くように踏む。時には、かかと部分に力を込め、硬い甲羅を叩き割る。
「ほらほら、どうしたの? 抵抗しないの?」
優子は、ハサミを振り上げて威嚇してくるザリガニを見つけると、わざと挑発するように言いながら、容赦なくシューズを振り下ろした。小さなハサミなど、何の役にも立たない。硬い甲殻も、体重のかかったテニスシューズの前では、脆く砕け散るだけだ。
テニススコートが、動くたびにふわりと翻る。汗ばんできた太ももに、スコートの裏地がまとわりつく。そして、その下で、スポーツ用のショーツが肌に密着している感覚が、なぜか急に鬱陶しく感じられた。
(……暑い……なんか、締め付けられてるみたいで……邪魔……!)
破壊行為への興奮が高まるにつれて、理性の箍が外れていくのを感じる。衝動的に、優子は立ち止まり、スコートの中に手を滑り込ませた。そして、履いていたスポーツショーツのゴムを掴むと、一気に引きずり下ろし、足元から抜き取った。そのまま、ぐしゃりと丸めて、コートの脇のフェンスに向かって放り投げた。
「……ふぅ……っ!」
ショーツを脱ぎ捨てた瞬間、スコートの下が解放され、汗ばんだ素肌に直接、湿った空気が触れる感覚がした。妙にスースーして、落ち着かないような、それでいて倒錯的な興奮を煽るような、背徳的な解放感。それが、足元で行われている破壊行為と相まって、優子の興奮をさらに加速させた。
白いテニスシューズは、もはや元の清潔さを失い始めていた。おびただしい数のザリガニの体液、内臓、砕けた殻の破片が、ソールだけでなく、アッパーのメッシュ部分や靴紐にまでべっとりと付着し、禍々しい模様を描き出している。ソールは完全に、有機的なペーストで覆われ、歩くたびに、ねちゃり、ぐちょり、という湿った、不快な音を立てる。
ソックスにも、その汚れは容赦なく及んでいた。シューズと足首の隙間から、潰れたザリガニの体液や肉片が侵入し、汗と混じり合って、ソックスをじっとりと濡らし、不快な感触で足首周りを満たしていく。気持ち悪い。不快だ。しかし、その感覚が、なぜか優子の興奮をさらに増幅させるのだ。
(もっと……! もっと汚してやる……! この靴も、ソックスも、私の足も、全部……!)
もはや、当初の怒りは、どこかへ消え去っていた。代わりに、優子を支配していたのは、純粋な破壊衝動と、足裏で感じる生命の断末魔の感触への、倒錯的な悦びだった。
優子の蹂躙は、さらにエスカレートしていった。彼女は、単に踏み潰すだけでは飽き足らず、様々な方法でザリガニを「処理」し始めた。
テニスシューズのつま先部分。それはパンプスほど鋭利ではないが、力を込めれば十分な破壊力を持つ。わざと、まだ生きているザリガニの硬い部分を狙って、体重をかけて押し潰す。メキッ、グシャッという音と共に、体液が滲み出す。その感触が、厚いソールとソックス越しにも、鈍く、しかし確実に伝わり、優子は小さく喘ぎ声を漏らした。
「ふふ……ここ、踏み潰しやすい?」
楽しそうに呟きながら、つま先をグリグリと抉るように動かす。ザリガニは、苦しそうに体をくねらせるが、やがて動かなくなる。その過程を、優子は冷徹な目で見届けた。
厚くフラットなソール全体を使う時は、まるで憎しみを込めるかのように、全体重をかけて、じっくりと圧力を加えていく。メキメキメキ……と、甲殻が悲鳴を上げるように軋み、砕けていく音。そして、ぐちゃぐちゃに潰れていく内臓の感触。足裏全体で、そのプロセスを味わい尽くす。時には、踏み潰したザリガニの死骸の上で、わざと足を滑らせるように、ソールを擦り付けた。ソールの細かい溝が、残骸をさらに細かくミンチ状にし、コートの表面に塗り付けていく。ねちゃあ、という粘着質な音が、背徳的な快感を増幅させた。
かかと部分も、有効な武器だった。体重をかければ、かなりの衝撃を与えることができる。特に、硬い甲羅を持つ大きめのザリガニに対しては、かかと落としのように、勢いよく叩きつけた。ゴツン! という鈍い衝撃と共に、甲羅が砕け散る。その衝撃が、足裏のかかとから、脚全体へと響き渡る。
「どう? 痛い? 苦しい?」
優子は、もはや誰に言うでもなく、そんな言葉を口走りながら、コートの上を徘徊し続けた。その表情は、怒りではなく、恍惚と狂気が入り混じった、異様なものへと変わっていた。瞳孔は開き、焦点が合っていないかのように、爛々と輝いている。唇は半開きになり、荒い呼吸が漏れている。額や首筋には汗が光り、白いタンクトップは汗で肌に張り付いていた。
コート一面に広がっていたザリガニの絨毯は、優子の足跡によって、徐々に、しかし確実に、赤黒い汚泥の海へと姿を変えていった。夥しい数の死骸、砕けた殻、飛び散った内臓と体液。そして、それらを踏みしめて歩く、一人の若い女。テニススコートを翻し、汚れたテニスシューズで、無慈悲な破壊を続けるその姿は、まるで悪夢の一場面のようだった。スコートの下から時折のぞく、汗ばんだ素肌が、異様な生々しさを放っている。
(気持ちいい……。なんだろう、これ……。すごく、気持ちいい……!)
頭の中では、警鐘が鳴っている。これは異常だ。おかしい。でも、体が、足裏が、もっとこの感覚を求めている。踏み潰すたびに、足裏から駆け上ってくる、痺れるような快感。脳髄を直接揺さぶられるような、倒錯的なエクスタシー。それは、どんな快楽よりも強烈で、抗いがたいものだった。
テニスシューズの中は、もはや悲惨な状態だった。汗と、ザリガニの体液と、侵入してきた肉片で、ソックスはぐちょぐちょになっている。足の裏は、湿ったソックス越しに、ぬるぬると滑るような不快な感触が絶えず神経を刺激する。しかし、その不快感こそが、最高の媚薬となっていた。足指を動かすたびに、ぬるり、ぐちょり、とした感触が、下腹部に熱い疼きを送る。ショーツを脱ぎ捨てた解放感が、その感覚をさらに増幅させた。
「ん……っ……! く……ぅ……!」
無意識のうちに、声が漏れる。腰が微かに震え、太ももの内側が熱を持っていくのがわかる。スコートの下、何も身につけていない素肌の感覚が、その興奮をさらに高めていた。
(もう……ダメ……!)
足裏に感じる、原型を留めないほどにグチャグチャになったザリガニの肉塊の感触。耳に絶え間なく響く、メキメキ、グシャグシャ、ブチブチというおぞましい破砕音。そして、視界の端々に映る、コートに広がったおびただしい数の赤黒い染みとミンチ状の残骸。それらすべての情報が、五感を通して優子の脳へと流れ込み、彼女の性的興奮にも似た感覚を、限界点へと押し上げていく。
白と青のテニスシューズは、もはや元の色を想像できないほど汚れていた。靴紐も、おぞましい汚れにまみれている。ソールは、ザリガニの有機物で完全に覆われ、歩くたびに粘着質な音を立てる。しかし、優子は、そんなことにはまったく頓着しない。むしろ、この汚れこそが、彼女の達成の証であり、満たされた欲望の勲章のように思えた。
「ああ……っ! もっと……! 全部……! 私の足で……!」
優子の目には、もはやコート全体が、踏み潰すべき対象として映っていた。まだ動いているザリガニ、あるいは既に事切れているかもしれない残骸。区別なく、ただひたすら、目の前にあるものを追いかけ、踏み潰し、すり潰し、蹴り飛ばす。その一連の動きは、狂気に満ちた、しかしどこかテニスのフットワークを思わせるような、歪んだダンスのように繰り返される。
力を込めて、厚いソール全体で、まだ微かに脚を動かしているザリガニの群れを踏みしめる。メキメキメキッ! グシャグシャグシャッ! 一度に数匹、いや十数匹が、足の下で圧殺されていく。確かな破壊の感触が、足裏から子宮へと響くような錯覚。
「あああああっ……!! もっとぉ……!!」
彼女は、さらに奥深くへと突き抜けるような快感を求め、踏みつける力を、回転させる速度を、増していく。足の裏に感じる、ミンチ状になった肉と殻が混ざり合うぐちゃぐちゃとした感触。鼓膜を打つ、おぞましい破砕音の連続。そして目に映る、地獄絵図のような、自分の足もとで繰り広げられる破壊の光景。それらすべてが、最後の引き金となった。
「んんん……っ! あああああーーーーっっ!!!」
喉の奥から絞り出すような、抑えきれない甲高い絶叫が、夏の午後の空の下、テニスコートに響き渡った。優子の体は大きく弓なりになり、ガクガクと小刻みに痙攣した。頭の中が真っ白になり、思考が停止する。激しい快感の波が、津波のように全身を洗い流し、足もとで繰り広げられた破壊の光景と、自身の身体の奥底から噴き上げた熱い衝動が、渾然一体となって炸裂した。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。優子は、コートの中央に膝をつき、肩で大きく息をしながら、強烈なオーガズムの余韻に浸っていた。心臓は、破裂しそうなほど激しく鼓動し、体はまだ快感の名残で微かに震えている。
足の裏には、無数の小さな命を奪い、蹂躙し尽くしたという、生々しく、ぬるりとした感触が、濡れたソックス越しにまだはっきりと残っていた。それは、背徳感と達成感が入り混じった、倒錯的な満足感そのものだった。投げ捨てたショーツのことも、今はもうどうでもよかった。
やがて、荒い呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻すと、彼女はゆっくりと顔を上げた。目の前には、彼女の怒りと衝動が作り出した、凄惨なアートが広がっていた。緑色のオムニコートは、広範囲にわたって赤黒い体液と、もはや元の形を想像することすら難しい、ミンチ状になったザリガニの残骸で覆い尽くされている。そして、その中心に立つ(今は膝をついているが)自身の足もと。白と青のテニスシューズは、おびただしい血と体液、肉片をまとわりつかせ、異様な模様を描き出し、鈍い光を放っていた。
「ふふ……ふふふふ……」
その光景を、優子は恍惚とした、満足げな表情で見下ろした。彼女の瞳には、先ほどの狂乱の熱がまだ色濃く残っているが、同時に、何か途方もない仕事をやり遂げたかのような、深い達成感が浮かんでいた。
「ふう……っ」
深く息を吐き、彼女は汗で額に張り付いた髪をかき上げた。そして、汚れたテニスシューズを、何の躊躇いもなく、愛おしむかのように見つめた。これは単なる汚れではない。彼女の内に秘められた衝動を解放し、満たしてくれた、特別な勲章なのだ。
(……すごいこと、しちゃったな……)
改めて、冷静さを少し取り戻した頭で考える。もし、誰かに見られていたら? 通報されたら? そんな考えが、一瞬頭をよぎる。しかし、すぐに、まあいいか、という投げやりな気持ちになった。やってしまったことは、もう取り返しがつかない。それに、この、満たされた感覚は、何物にも代えがたい。
優子は、ゆっくりと立ち上がった。そして、おもむろに、コートの隅にある水道へと向かった。テニスプレイヤーのために設置されている、簡単な手洗い場と、足洗い場がある。
彼女は、まず、汚れたソックスを脱ぎ、それをシューズの横に置いた。そして、自分の素足を洗い始めた。ホースから勢いよく出る水で、足についた血糊や肉片、泥などを洗い流す。しかし、爪の間に入り込んだ汚れや、皮膚に染み付いたような匂いは、なかなか取れなかった。
次に、問題のテニスシューズとソックス。メッシュ素材や厚いソール、ソックスの繊維にこびりついた有機物は、水だけでは到底流れ落ちない。優子は、近くに落ちていた木の枝を拾い、それを使って、ソールの溝や、メッシュの隙間に入り込んだ肉片を掻き出そうとした。しかし、やればやるほど、汚れが広がるだけで、きれいになる気配はない。強烈な生臭さも、全く消えなかった。ソックスは、赤黒い液体を吸って、もはや元の白色ではなかった。
「……もう、無理か」
優子は、ため息をつき、シューズとソックスを洗うのを諦めた。びしょ濡れで、おぞましい汚れが付着したままのシューズとソックス。これを、もう一度履く気には、さすがになれなかった。かといって、捨てる気にもなれない。これは、今日の「戦利品」であり、「記念品」なのだから。
結局、優子は、テニスバッグに入れていたタオルで足を拭き、裸足のまま、汚れたテニスシューズとソックスを手に持って、コートを後にすることにした。テニスラケットは、一度もバッグから出されることはなかった。投げ捨てたショーツは、そのままフェンス際に放置した。
テニススコートにタンクトップ、そして裸足。手には、血と臓物で汚れたテニスシューズとソックス。そんな奇妙な姿で、優子は、夕暮れの運動公園を歩き始めた。すれ違う人がいたら、どんな目で見られるだろうか。しかし、今の彼女には、そんなことを気にする余裕も、気力もなかった。
ただ、足の裏に感じる、地面の感触と、手のひらに伝わる、汚れたシューズとソックスの重みと湿り気。そして、心の中に残る、あの強烈な蹂躙の記憶と、満たされたような、それでいてどこか空虚な感覚。それだけが、確かな現実だった。
今日の出来事は、優子の中に、何を残したのだろうか。一時的な怒りのはけ口として、忘れ去られるのだろうか。それとも、これは、彼女の中に眠っていた、新たな扉を開けてしまったということなのだろうか。
夏の夕暮れの空の下、裸足で歩く優子の姿は、どこか危うげで、孤独に見えた。そして、彼女の心の中では、早くも、次なる衝動の予感が、静かに、しかし確かな熱を帯びて、燻り始めていたのかもしれない。
(次は……何を、踏もうかな……? この靴で……いや、もっと、違う靴で……?)
そんな考えが、頭をもたげる。答えは、まだ、誰にもわからない。優子自身にも。ただ、あの、足裏で感じた、生命を破壊する感触だけが、忘れられない記憶として、深く、深く、刻み込まれていた。
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