【小さな飢えと決意】
飢えのせいで弱っていた肉体は、驚異的なスピードで回復した。
宮路はすでにこと切れたヨスガを背負うと、未だ狂ったように地底人の肉を貪り食う子供たちの元へ駆けた。
「おいしい、おいしいね、もっと食べたいなあ」
泣きながら狂気を零す子供たちの姿を見て、宮路はようやく曇っていた視界が開けていく心地だった。
遅すぎたのだ、と嫌でも痛感する。
「なあ、もう食わんでええよ」
止めるために掴んだ腕は、子供にしては筋肉質だった。
永木は驚いた顔をして宮路を見上げる。
そこに弱り果てていた宮路はいなかった。いつもの、自分たちがまだ人間であったころの、面倒見の良い大好きな先生がいた。
永木は胸の奥から込み上げてくる思いを吐き出した。
「先生、もう、こんなこと、やめたい。嫌だ、助けて」
「うん、分かっとる。もう大丈夫やで」
永木の中にある地底人への憎しみは消えていない。けれど、決してこうなりたいわけでは無かった。ただ、やられたことをやり返したかっただけなのに、気づけばこんなことになっていた。
宮路が何度も止めてくれたのに言うことを聞かなかった結果。憎しみに呑まれて地底人の血肉を貪り、人ではなくなった結果。
だから今、宮路が永木と道原の首に手を掛けたのも、その結果にすぎないのだ。
「今から君らを殺そうと思う」
宮路が言った。永木も道原も反論はできなかった。きっと殺されない限り、二人を襲う常軌を逸した飢えから解放されない。地底人の肉を食した作用か、いくら食べても空腹が満たされないのだ。
その苦しみからようやく解放されるのなら。
道原はそうっと永木の手を握った。好きな女の子の小さな手は、驚くほど温かい。
「宮路先生、俺らを、助けてくれてありがとう」
「礼なんて言わんといてや」
道原から顔を反らした宮路。その拍子に、永木の頬に涙が落ちてくる。宮路が泣き虫なことを、この時はじめて思い出した。宮路の誕生日にみんなでお祝いの歌を披露した時も泣いていたっけ。こんなに辛そうな顔では無かったけれど。
「宮路先生、ごめんね」
そう言い残して、永木と道原は思っていたよりもずっと静かに息を引き取った。
生徒が少しでも苦しまずに死ねますように、と渾身の力を込めて首を絞めた宮路は、ほどなくしてその手を離した。
小さな亡骸に囲まれて、小さな飢えを覚える。このまま自分も死んでしまえたらどれだけ良いか。けれどできない。宮路の心は今、暗く重たいものに囚われていた。
「ヨスガの言う通りや。憎しみは継がれていく。だから、ぼくが全て断ち切らんと。自分が死ぬのはその後でええやろ」
鉄格子の中で死に絶えている地底人に見向きもせず、宮路は三人の亡骸を抱えて歩き出した。
※
今こうして宮路の膝に座っているヨスガが、濃霧の山が見せる幻覚だと知ったわたしは、はくはくと無意味に呼気を零した。何を言えばいいのか分からなかった。
勝手に流れていた涙を宮路に見せるのは抵抗があったから、慌てて袖で拭う。
「ぼくは憎しみの連鎖を断ち切りたい。その為には地底界そのものをぶっ壊さなあかん。だから地底人を殺すねん。なあ、君には関係ないと思ってるかもやけど、関係大ありやで。地底界に人間がいる限り、憎しみは必ず発生するんやから」
例えば、と宮路は続ける。
「アンダーランドを壊滅させた人間が憎い、とかな」
宮路はぎらぎらと目を輝かせて、わたしの顔を覗き込んでくる。
「人間と地底人が対立した先には、戦争が待っているやろうな。殺し合い、そうして両方が散ればええとぼくは思っとる」
例えば、なんて可愛い前置きは嘘八百だと分かる。宮路は心の底からそれを望んでいるのだ。そして、それが現実になりつつあると分かってもいる。
「それ、わたしなんかに話す意味あった?」
「あるで。この話しを聞いて、君は少なくとも地底人にも非があることを知ったやろ。なあ、その上でどう思う? 君の弟もこっち側におることやし、いっしょに行かへん?」
わたしは頭ごなしにその提案を否定できなかった。
例えば、と先ほどの宮路と同じ言葉を連ねる。
地底人の憎しみの矛先が人間全体に向いた場合、わたしがここから抜け出したとしても危険が待っているだけだ。その元凶は宮路に他ならないが、彼は人間であるわたしに危害が及ばないように考えている。だってこの場所には、地底人を憎んでいる者しかいない。
それでも、頷くことは出来なかった。
「あなたの優しさは、わたしには怖い」
「怖いか。それは残念やな」
くつくつと喉の奥で笑う宮路。「やっぱり女の子は手ごわいもんやな」と冗談めかす彼の屈託ない顔に、わたしへの敵意は微塵も感じられなかった。
※
宮路が去った湖で、わたしは頭を悩ませた。
今、ここに一人でいるのは、わたしに与えられた最後のチャンスだ。このチャンスが偶然だと思えるほど能天気ではない。だからこそ悩んでいるのだ。
「わたしは、どうしたいんだろう」
大前提として、わたしにとって宮路はアンダーランドの悲劇を引き起こした極悪人に他ならない。けれど、人間であるわたしへ向けられた情すら疑ってしまうほど心が無いわけでもなかったと知って、少し混乱している。
きっと、ここに居たらわたしは安全なのだ。そう分かっているけれど。
「姉ちゃん、どうすんの」
いつの間にか背後に立っていた都司を振り返る。
会いたかったはずのわたしの家族。一緒に地上に帰りたくて、ずっと探していた大事な弟。それなのに今はもう、そう思えない。
「本当はさ、都司と地上に帰りたかったよ。でもやっぱり、わたしは人殺しを許せない」
「そっか。じゃあ、ここでさよならってことかな」
「都司のことを許せなくてごめん」
「いずれ考え直す時が来ると思うけど」
そう言って不敵に笑う都司に背を向けた。
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