【絵を見つけた】

 ここまで小舟を漕いできた。

 タイミング良く屋敷から出てきた母に会うなりそう伝えると、顔面蒼白の顔で叱られた。

 体のラインが綺麗に見える黒い喪服を着こなしている母は、以前会った時と一ミリと変わっていない若々しい風貌のままであった。


「いくらライフジャケットを着ていたからって危ないでしょ。あの湖はとっても深いの。水深二メートルはあるのよ。それを普段乗りもしない小舟でここまで。はあ、お母さん寿命が十年縮んだわ」

「ごめんなさい」


 しおらしく二人揃って頭を下げる。確かにいくらテンションが上がっていたからと言っても、運よく辿り着けたと言っても、無謀な挑戦だったことに違いない。

 母は最後にわたしと弟の頬を強く摘まんで説教を終わらせた。


「無事だったから今回限り良しとします。さあ、二人とも中に入ってゆっくり休んで」


 母は所謂キャリアウーマンだ。祖父が体調を崩し始めた半年ほど前からこの大きなお屋敷で在宅勤務をしているが、本来は国内外問わず飛び回るバリバリの営業職である。それもあって関係者への知らせや葬式のスケジュールまで、さっさと一人で全て組み終わっていた。

 母はわたしたちをダイニングへ案内してくれた。


「ここまでの道のりがあれだからね。今夜九時くらいには親戚が来る予定だけど、通夜はこじんまりとした人数になるわ」


 くたびれた革製の手帳を閉じた母が、それを大事そうにポケットへしまった。もう何年も前に、母の日にあげた手帳カバーだ。少し気恥ずかしくなる。

 ダイニングテーブルの上は、何度もキッチンとの間を往復する母のおかげで、あっという間にお皿で埋め尽くされた。

 わたしの体は思っていた以上に疲れていたみたいだ。いただきますもそぞろに、母が作ってくれたカレーをかき込んだ。五臓六腑に染み渡るとはこのことだ。無心で食べているわたしの前髪を、母が可愛いヘアクリップで留めてくれた。


「とてもかわいい髪色ね」

「写真も送ったでしょ」

「うん。待ち受け画面にしてるわよ」

「やめてよ、それは恥ずかしい」


 文句を言ってものらりくらりと躱された。

 先に食べ終わった都司が、屋敷を探索すると言い出した。その目は曇り一つない好奇心に満ちていた。母が苦笑と共に手帳を一枚破って都司に手渡した。


「無駄に広い家だから、ここに来た時に迷わないよう地図を作ったの。もう外は真っ暗だから探索するのは屋内だけ。約束ね」

「うん、約束する。母さん、これありがとう」

「どういたしまして」


 都司は疲れ知らずの軽やかな足取りで部屋を出て行った。それを見送る母の背に声をかける。


「お母さんでもこの屋敷で迷うの?」

「迷うわよ。小さなころから知っている場所だけど、住んだことはないもの」


 夏休みや年末年始に過ごす場所。別荘として祖父が建てた屋敷なのだと母が教えてくれた。


「でも父はそれ以外の日も、一人でこの場所によく来てたわ。よっぽど好きだったのね」

「ふうん。まあ自然豊かで綺麗だし、静かに過ごせそうだもんね」

「そうそう、それで思い出した」


 母がスマートフォンに保存されている写真を見せてきた。

 そこには額縁に入ったいくつもの油絵が、壁いっぱいに飾られている大きな部屋が映っていた。まるでコレクション部屋のようだ。星空の絵が多く見えるが、切り立った崖や砂漠など風景画が多い。


「父が描いたのよ」

「これ全部、おじいちゃんが?」

「そうよ。絵を描くことが好きだったから。それでね、いくつか私たちの家に飾ろうと思ってるの。全て処分じゃ忍びないから」


 わたしは母からこの部屋の場所を聞いた。ついでに家に飾る絵を選ぶ権利を手に入れた。


「お風呂沸かしておくからね」

「はあい」


 母の声を背に受けた。

 コレクション部屋は、玄関を入ってすぐ横にある渡り廊下を渡った先。忘れないように口の中で繰り返す。


「ここだ。けっこう黴臭いな」


 入り口近くにあったスイッチを押すと、天井からぶら下がっている頼りない豆電球が点灯した。

 薄暗いが、視界に困らない程度の明るさはある。

 壁には絵、絵、絵。

 写真に映っていたとおり風景画で壁が埋め尽くされていた。


「どこの国の絵だろう」


 緑が一切ない砂漠を描いたものがあれば、緑豊かな水辺を描いたものもある。もしかすると、祖父は海外旅行が好きだったのかもしれない。


「それにしても綺麗な絵。どれを持って帰ろうかな」


 軽く十畳は超える四角形の部屋をぐるりと一周している途中、わたしは窓の外が気になった。

 がたがたと窓が音を立てているのだ。


「さっきまで風なんて出てなかったのに」


 わたしは不思議に思い窓際に近寄った。分厚いカーテンをめくり、そうっと外を覗いてみる。

 真正面には大きな洞穴があった。二車線の道路くらいの幅がある大きさだ。

 目を凝らしてみると、地面に生えているたくさんの雑草が洞穴に向かって倒れていた。その中の一つが根元から折れてしまい地面から切り離されると、ひゅんと魔法のように一瞬で洞穴の中に吸い込まれていった。


「なにこれ」


 わたしは恐怖よりも好奇心が勝った。目を爛々と輝かせる自分を窓ガラス越しに見た。

 どうして洞穴に向かって風が吹いているのだろう。その先に何があるのだろう。

 鍵を外してみる。風圧のせいだろうか、とても重たい窓を何とかこじ開けていく。


「姉ちゃん、何してんの」

「今は来ない方が良かったかも」


 わたしが窓を全開にしたのと、都司が部屋に入ってきたのはほぼ同時だったと思う。

 ゴウゴウと地鳴りにも似た音とともに、わたしの体がふわりと浮いた。

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