たった一つの怠惰なあり方

酢烏

たった一つの怠惰なあり方

(注意)

本作品には露骨な性的描写・暴力描写が含まれます。苦手な方、心理的に抵抗がある方は速やかにブラウザバックすることを強くおすすめします。

また、本作品によってあらゆる暴力を肯定・助長する意図は一切ございません。ご了承ください。


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 S州N市の大通り、その一角にたむろする若者たちは「カプセル」を利用する。

 カプセルとは、隠語ではない。数十年前に流行した、小さな個室を提供するユースホステルの略称でもない。卵のように白くて艶のある表面をした、カプセル状の設備のことだ。

 カプセルは一切の装飾品がついていない無骨な見たくれであるが、唯一小窓だけが上部についており、利用者はそこから出入りする。

 このカプセルを利用するには3、4バドル(筆者注:現代日本で500円程度)を管理施設に支払う必要がある。だが収入が多く生活水準の高いN市民のこと、貧民街の生まれや無職、ホームレスでない限りは毎日利用したとしても支障のない額であった。むしろ日々の鬱屈に苛まれし若人たちにとっては毎日使いたいほどであった。


 そんなカプセルから今しがた出てきた男性が一人。もじゃもじゃとした金髪を掻きながら下りてくる白人の男性は筋肉質の肉体で、局部を隠すために身にまとった下着は粘液に濡れていた。

 時を同じくして別のカプセルからもう一人、男性が下りてきた。こちらは混血らしく肌色の濃い人物で、同じく屈強な鍛え上げられた肉体美を誇っていた。彼もまた下半身をだらしなく白い粘液で汚している。

「おいハルじゃないか。来てたんなら声をかけてくれたっていいだろうに」

 声をかけられた白人――名前をハルマンと言うが、通称はハルだ――は友人の姿を一目見て嬉しそうに微笑んだ。

「なんだよ、脳にモールを差して楽しんでいるのを邪魔しろって?」

「おいおい、俺らの友情は裸のビッチに優先される程度のものなのかよ」

 混血の友人、フランクも釣られて笑う。軍人時代から同部隊のよしみで懇意にしていたが、戦場からN市に戻ってきた今も近所だったことで交流が続いている、ハルにとっては数少ない知り合いの一人だった。そんなフランクが肩に手を回してシャワー室を指さす。

「なあ、何を見たんだ、流す前に教えてくれよ」

「君みたいに巨乳のビッチじゃない。好みじゃないんだ」

「あれそうだったっけ。ってか別にビッチだけがストライクじゃねえ、ただこの前コーヒーショップで見かけた女が妙に気になったから、そいつとSEXする欲望を抱いたってだけだ」

 シャワー室は個室に分かれていて、彼らは隣り合う二つを選んだ。ブースの壁は薄く、隣であれば水流の音越しでもそれなりに会話ができる。

「じゃあよ、一体何を指向して見たんだよ。ハルの好みっていまだに分かりづれえんだよ」

「それは結構。ひけらかすのは嫌いな方なんでね」

「おいおい、そんなに乗らない性格だったかお前ー」

 そんな風に雑談をかましていると、不意にフランクが黙った。普段からお喋り好きで沈黙は三秒と待てないはずの男が珍しい、ペニスに痛みでも覚えたか粘液が陰毛に固着して取れなくなったかと心配していたら、彼の口から妙に暗い声で呟きが聞こえた。

「なあ、蘇りって信じるか?」

 ひどく聞き取りづらい声だったが、そう言っていたと思われる。

「信じるというか、イエス様が蘇っただろ」

「違えよ。俺ら凡夫のことだ。罪の多い俺たち俗世の人間にも奇跡が起こって、蘇るようなことが起こり得ると思うか?」

 フランクは敬虔なクリスチャンでそんな不安はおくびにも出さない人間だと思っていたが、何かあったのだろうか。懺悔もできないような悪事をしでかしたのか、あるいは急に主の御業を信じられなくなったのか。何にせよ彼の落ち込みようを鑑みるに追及はできそうにないと判断したハルは、あくまで無神論的な自分の考えを述べた。

「個人的な見解を言えば――蘇りは起こらないと思う。一度土塊に戻った肉体が元に戻った事例は古今東西問わず聞かないし、君も言った通り、僕らは罪を犯し過ぎている。救世主様のような超人性が無い以上、蘇生は望むべくもないと思うね」

 その回答にフランクは「そうか、そうだよな……」と呟いたきりだった。施設を出て別れるまでそんな調子で、結局彼が何に悩んでいるのか訊けずじまいだった。

「まあ、なんとかなるだろう。あいつのことだ」

 そう割り切ってハルは自宅に戻る。



 ただいま、と言ったところで返してくれる者はいない。

 N市郊外にある高層マンション、その3階にある一室がハルの生活拠点だった。ここには本来、彼の妻が住んでいた。本来であれば、今も住んでいるはずだった。

「……蘇りなんてのが本当にあれば」

 マスタベーションの効果が切れたのだろうか。思わず口に出して、そこでハルは止めた。それ以上言葉にしてしまったら、きっと感情を抑えられない。

 妻のヨナは先の戦争で死んだ。ハルが戦場に行っている間に、市街地が空襲に遭って、その犠牲の一部になった。遺体はバラバラになったのだろう、今も見つかっていない。

 ただこの国の技術はすさまじいもので、一度爆散したこの建物はかつての姿を再現した。家具の型番も位置も、本の一冊までもそっくりそのまま。怠け癖がたたって腐ってきたサボテンの花も寸分違わずそこにある。

 だからこそ否が応でも実感させられた。妻だけが、この部屋にいない。

 妻だけが、いなくなった。

 喪失感、という言葉は本質を射ていない気がする。これは、そんな数文字で表現できる代物ではない。

 分かっている。N市民の大半が、帰還兵のほとんどがその憂き目に遭った。独り身のフランクでさえ飼い猫をシッターごと亡くした。分かっている。

 それでも、ハルは受け入れられなかった。この感情をまるごと受け止められる器量が無かった。とにかく自分の中の虚無を埋めようと必死で、性的快感に助けを求めた。生来の床オナ嗜好で性器が傷ついていたから、やむなくカプセル漬けになった。それでも痛みは消えてくれなかった。

「蘇りなんてのがあれば、ヨナを蘇らせてくれればいいのに」

 きっと限界だったのだろう。無意識のうちに口を滑らせ、無意識のうちに嗚咽を漏らしていた。

 その状態が何時間続いたのか。いや、実際は数分だったのかもしれないがハルにとっては長時間極まりなかった。

 ブザーが鳴った。

 普段は訪ねてくる者のいない部屋だ。食料品や生活用品はドローンによる自動配達だから、生身の人間が何か用があってやって来ているに他ならない。しかし大家という存在さえAIに置き換わったこのマンションに一体どんな用事が残されているというのか。

 とはいえ対応しないのもまずい。なんとか顔にしみ込んだ涙を拭き取り、最低限人前に出せる表情を作って玄関口の様子をモニターに映した。

「何用でしょうか」

 周囲の摩天楼のせいで常に日陰となっている玄関口は、立っている相手の容貌すら掴ませない。薄い外套を羽織っている細身の女、というのはなんとなく理解できた。

「何用でしょうか」

 返答が無かったので、今度は強めに問い質す。これで無視を貫くようであればもうモニターを切ろうかと考えた、そのタイミングで。

「……ハルくん?」

 その瞬間、己の耳を疑った。柔らかい、包み込むような声色は聞き間違えるはずもない、しかし信じられなかった。

「ハルくんだよね」

 妻だった。一瞬上げた顔は、紛れもなくヨナその人だった。

 モニターも消さず急いでドアを開ける。恰好は汚らしかったが、間近で確認して、間違いなかった。

「ヨナ、生きていたのか!」

 思わず抱きついた。

「ちょっと、痛いよハルくん……」

 嫌がる素振りをみせながら無理矢理離れようともしない。妻も喜んでいるのだ。

「一体今までどこにいたんだ」

「うん、ちょっとケガしちゃってて病院に」

「連絡くらい寄越せよ……まあいい、疲れただろう。早く家に入ろう」

 抱き合ったまま二人は部屋に入る。そのまま軽くキスをして、言葉もなしにシャワールームへ吸い込まれる。

 まずは彼女を先に。美しい裸体は下腹部にケガをしていたという割にまったく汚れておらず、戦場へ行く前の艶やかさを一切変わらずたたえている。肉感の強さは増しているように思われたが、些細な質の変化などハルにはお構いなしだった。

 そしてハルも衣服を脱ぎ捨ててシャワールームに入る。先ほど浴びたばかりで出先のソープの香りが漂っていたが、それも彼女の体臭にかき消された。

「随分長く洗ってなかったのかい」

「ええ。汚してしまったらごめんなさい」

 構わないさ、とハルは我慢できずに口を奪った。そして、そのまま浴槽に倒れ込むようにして交尾する。柔らかい。温かい。陰毛のむず痒さすら愛おしい。男性器が思わず勃起して、とうの昔に破れた処女膜をまた貫く。

「……ぅんっ」

 妻の喘ぎ声と吐息が耳にかかる。彼女の反応はいつも控えめだ。ああそうだ、この感覚だ。この感覚は、妻にしか提供できるはずがない。床に擦り続けてもまったく活性化しなかった興奮を、いとも容易くもたらす。

 妻は蘇ったのだ。おお、神よ! この時ばかりはハルもそう思った。

「ね、ねえ……あっ…………ハル、くん、ぃあッ」

「ンふぅ……なんだい」

「ハルくん、こんなに……強かったっけ」

 プレイのことを言っているのだろう。自覚はなかったが、再会の喜びがそうさせているのかもしれない。そう答えたら、妻は喘ぎながら言う。

「だって、ハル……ん、ああっ……、もっと、じっくり、いく人だったでしょ……?」

「そう、だったかな。普通だよ」

 答えながらハルは、自分の中で何かが急速に冷めていくのを感じた。膨らんでいたペニスがしぼんでいく。彼女の懐が意外に柔らかかったからか? いや違う、いくら床オナ趣味とはいえ今までなら問題なく射精できていた。なぜだ、なぜできない、何が違う?

 ハルの思考とは裏腹にヨナはどんどん発情していく。こちらが勃起を止めているのにも気付いていないのか、はたまた彼の勃起など必要なかったのか。

「ねえ、ハ、ル、くん……」

 彼女は真っ赤な舌を出した。

「もっと、して」

 なんだ、この違和感は。


「くあっ、え、はッ」

 気付いたときには、ハルは妻の首を絞めていた。

「は、あルくん、なに、するの」

「黙れ」

 違う。この女はヨナではない。ヨナの姿をした、何かだ。断じてヨナではない。

「……ぐ、ぐあ」

 女の声がどんどん細くなる。押し潰したカエルのように、漏れ出る声が汚くなる。

「う、うぐぅうううゥっ!」

 ついには騒ぎ出した。手足をばたつかせ始めた。

 そんなに息が欲しいか。しかし、軍で鍛え戦場で培ったこの筋肉に非力な女性が抗えるわけがない。

「ぇェああァぁ……は、る、くん……」

 があッ、という巨大な呻きの塊を吐いて、女は動きを止めた。もう、息をしていない。それでも念のためハルは五分ほど彼女の首を絞め続けた。

「……リリスめ」

 なぜか、その名が出た。ハルは敬虔なクリスチャンではなかったというのに。



 翌朝、目が覚めるとリリスの遺体は無くなっていた。

 やはり悪魔だったか、あれは。虚像だったか、あいつは。騙されずに良かった。

 ヨナは蘇ってはいなかった。蘇りなど、あり得ない。

 そう自分に言い聞かせて、今日もあてもなくハルは自室を出た。


 カプセルの管理施設でフランクに会った。昨日より、ひどくやつれた表情だった。

「よおハル。疲れてるな」

「それは俺のセリフだ」

 それ以降お互いに会話はせず、各々下着になってカプセルに入る。寝転ぶと自動で小窓が閉まり、睡眠ガスが放出される。これで神経が鈍った隙に、脳にさまざまなモールが接続されて特定の神経細胞を刺激し、事前に登録した好みの脳内体験をさせる。

 今回ハルが望んだのは、妻との性行為だ。あんな紛い物ではない、本物とのSEXを。空想でも構わない、矛盾しているようだが矛盾していない。

 ほらみろ、彼女の膣に男性器が入っていく瞬間、現実のペニスが興奮して……。


 しない。

 出ない。


 おかしい。

 これは、おかしい。

 だって、このままだと、昨日のリリスは……。

 いや、あれこそ本物のヨナだったと認めざるを得なくなる。

 おかしくなったのは、俺の方だと認めざるを得なくなる。


 結局、ハルの男性器は動かなかった。

 下半身を真っ白く汚したフランクが人が変わったようににこやかに煽ってきたが、無視した。

 おかしい。おかしい。おかしい。

「なあ、やっぱりお前なんか変だぞ。嫌なことでもあったなら、俺が相談に乗るぜ」

「余計なお世話だ」

 おかしいのは、俺なのか?

 違和感が仕事をしない。いや、仕事をしているから今こうなっているんだ。

 一体いつから、どのくらい、おかしくなった?

 わからない。

 わからない。わからない。わからない。


 何よりわからなかったのは、自室にリリスがいたことだ。

「おかえり、ハルくん」

 妻の声だった。妻の姿だった。

「どこ行ってたの? 私もさっき帰ってきたばかりだから、今夜の食事はレストランで取ろうよ。いい?」

 服装こそ変わっているが、昨日より綺麗になっているが、紛れもなくヨナだ。

「いたっ! え、ハルくん、どうしたの……?」

 いきなり押し倒して悪いが、首元を確かめてみる。

 くっきりと、ハルの手の跡が残っていた。

 どういうことだ。

 やっぱり殺している。なのに、生きている。

 まさか本当に、蘇ったというのか?

 昨日の時点で蘇っていて、今日また蘇ったというのか?

「ねえハルくん、やっぱり、、、、おかしいよ」

 その言葉で、ハルは完全にショートした。



 ブザーが鳴る。玄関に立っていたのは黒くて重装備の作業着をまとった男たち。

「お待たせして申し訳ありません。復興省の者です」

 そう名乗ったので、ヨナは扉を開け彼らを自室へ入れ込んだ。

「すみません、またお手間をかけてしまって。しかも今度は夫でして」

「いえいえ、仕事ですからお気になさらず。こちらがハルマンさんですね」

 言いながらリーダーと思われる男が横たわるハルマンの頭部をいじり始めた。懐からドライバーを取り出し、一目見ただけでは分からないネジを回し、やがて開いた頭皮からは無数の電子回路が覗く。

「ああ、演算の失敗が続いてショートしちゃいましたね。エラーログを取りたいので、修理はちょっと待っていてくださいね」

「それは構いません。それにしても面倒なものですよね、アンドロイドって」

 まあ、と男はヨナの方を見ずに答えた。

「遺体からなんとか取り出せた意識をコピーした存在にすぎませんからね。それでも我が国の技術をもってすれば、機械の肉体でも生前を完全に再現できるはずだったのですが……」

「上手くいかないものですね。ところどころエラーが出て停止する、って聞きますもの。生前の思考と機械のロジックが不一致を起こす、とかで」

「あはは、お耳が早い」

 男は防護マスク越しに業務用の笑顔を見せた。

「まあでも、所詮は遺体の復元ができなかった頃の苦肉の策ですから。今じゃナノマシンのおかげで、肉体も精神もそのまま復元できますからね」

「ええ、二日連続でお世話になって申し訳なかったです」

「……これでいいかな。さあ、起きろ!」

 頭皮を再び締めた男がハルマンの再起動を待つ。数秒後、駆動と排熱のけたたましい音を轟かせて、アンドロイドの四肢が死にかけの虫のようにビクッと仰け反った。

「……あ、ア、アイアム。ハルマン・ボーマン。OK?」

「OK。さ、直りましたよ」

 駆動音が収まりハルマンが動き始める頃には、既に復興省の職員は部屋を去ろうとしていた。お礼を言う暇もなく出ていくので、ヨナはかろうじて手を振るしかなかった。

「……ヨナ?」

「あ、ハルくん起きた。よく寝られた?」

 振り返ったヨナは笑顔で駆け寄る。アンドロイドだろうが何だろうが関係ない。エラーを起こしてショートしようが問題ない。だって、自分が愛した夫だもの。

「もう夜なんだ。だからさ、今夜はレストランでディナーにしようよ」

「う、うん……ちょっとぼおっとするけど、運転はできる、はず。でも念のため近くでいいかい?」

 ええ! とヨナは力強く返事をした。



「幸せそうでしたね」

 部下の一人がつい口走ってしまった。私語厳禁ではあるが、チャンドラーは部下に甘いことで有名だったので発言を許した。

「機械とでも結婚生活を送れるだけ、お前より幸せだな」

 代わりに、手痛い反撃を食らわせて黙らせるという悪癖を持っていたが。

 ……しかし、あの幸せは長続きしないだろうな、とチャンドラーは思った。

 エラーの頻度が高いからか? 違う。

 夫がたびたび奥さんを殺すからか? 違う。

 アンドロイドの設計ミスか? それも違う。

 むしろ問題は、ナノマシンの方にある。


 人類は大きな過ちを犯した。核兵器を使わなければ人類は滅亡しない、などと高を括っていた。

 通常兵器のみであったとしても、戦争の規模と頻度が高くなれば、人類は容易に数を減らし滅亡寸前までいくのだと気付いたのは、生存者の70%が高齢者になってからだった。

 ここまで対応が遅れたのは他でもない、戦略と戦術をAIに任せたからで、その時には戦える兵士も街で暮らす庶民もほぼほぼ残っていなかった。ただ地下のシェルターでのうのうと暮らしていた富裕の老人たちのみが災禍を逃れ、だからこそ人類存続の危機に瀕していることに気付かなかった。

 焦った老人たちは、残った知恵と科学技術を結集してアンドロイド計画を発動した。まず、わずかに残った若者たちに対して精子や卵子を搾り取るためのカプセルを提供した。そうして回収した精子・卵子をアンドロイドに搭載し、機械同士で性交することで受精、そして子育てまで行わせる。

 アンドロイドは歳を取らないから、人格のコピーさえ正常にできれば無限に子供たちを増やせる。一気に受精させて大量に人類を生み出しても、それを世話する人手が足りないから、その世話を機械に任せるにはエネルギーが足りなかったから。ある種の苦肉の策だった。


 しかし数ヶ月前、革命が起きた。ナノマシンだ。

 そのナノマシンは人間の肉体に取り付いて、細胞の再生と増殖を促進させる。その効果は絶大で、部分的な遺体だろうと腐敗した肉塊であろうと構わず再生させてしまう。しかも知識や意識の断絶など精神面での障害も残らないのだ。誰が開発したのかは分からないが、恐ろしいほどの性能だった。

 ナノマシンを使えば、死人が蘇る。微小でも肉体さえ残っていれば、再生できる。そうすれば人手不足に悩んでアンドロイドを頼る必要もなくなる。

 人類は一気に数を再生させた。街にはアンドロイドとナノマシン蘇生体が入り混じることになったが、些細な問題だ。カプセルによる精子・卵子の搾取も続けて、いざという時のストックもある。

 まさしく神が与えた救済だ。老人たちはそう思った。


 これは復興省でもごく一部の高官しか知らないことだが、ナノマシンには弊害がある。

 どうも細胞を蘇生させる際、未知の有毒物質を放出する、らしいのだ。

 成分解析はまだ進んでいない。毒素の強さも、影響力も、対処法も分かっていない。というより、老人たちが触れさせない。「表に出すのが不都合だから」と、数多くの研究者に委ね解決すべき事項であるにもかかわらず。

 研究によれば、この毒素は遅効性らしく、すぐには効果が表れないらしい。

 ただ密度が一定の数値を越えたとき、人間の肉体に悪影響をもたらす。人間の肉体のみに、だ。

 この毒素に侵された人間は、四肢および内臓の機能がどんどん低下し、免疫力が無くなる。そして最終的に、死ぬ。ある意味、放射能汚染の同類だ。

 そして、この毒素の対処法より先に、汚染がいつ頃どの程度まで広がるか、の研究が終わった。本末転倒だったが、老人たちはその結果に衝撃を受けた。

 曰く、「あと3年で、全世界に蔓延する」。

 要は、3年後に全人類が滅亡する。しかも今すぐ全ナノマシンを停止させたとしても、ほとんど時間稼ぎにならない。兵器の大量使用で気候が狂いまくった結果、各地で偏西風のような大気の移動が激しくなり、既にかなりの量の毒素が各地に拡散されている、とのこと。


 案の定、老人たちはこの事実を隠し、そのくせナノマシンは停止させてわずかながら延命を図った。当然、「生き返る」と聞かされていたのに蘇生させてもらえなかった人々が存在する。その身内や恋人、知人が怒りをあらわにし、老人たちを訴える。「何か裏があるのではないか?」と陰謀を広める輩が現れる。そうして煽動された民衆が、復興省へのレジスタンス活動を始める。

 チャンドラーらが重装備なのは、仕事中に襲われた際に備えてのことだ。おかげで街中で目立ち、余計に襲撃される機会が増えた。元軍人の民間人も多いから、数で押されればチーム全員が簡単に殺されるのもザラにあった。ここN市のようにナノマシンの適用が遅かったところは、うまくできたプロパガンダで比較的穏やかに仕事ができるのだが、ごく少数だ。

 ろくでもない仕事だ、とは皆が思っていた。しかし、その理由を知っている者は少なく、そのくせ復興省は賃金も高いので戦場上がりで仕事のない人間がこぞって集まってくる。中にはナノマシンの不正利用者や横流しを行う者もいて、結局は復興省が厳重に管理調整する形でナノマシンの使用が許可されることになった。

 現在、研究者が猛スピードで対策を練っている。が、たった3年で何ができる。

 人類の復興の救世主だったナノマシンは、いつしか人類を滅ぼす疫病神となっていた。

 いや、アンドロイドなら少しは生き延びられるかもしれない。エネルギーの不足や人格不一致によるショートが起こらなければ、の話だが。まあ難しいだろう。


 つまるところ、老人たちは――いや、人類は楽をしたがりすぎた。

 もっと堅実に、もっと真面目に対処し続けていれば、目先の誘惑に縋りつかなければ、このような地獄に堕ちなくてもよかったものを。

 その意味で、我々は悪魔リリスにそそのかされた。そして、負けたのだ。

 であれば、新人類リリンに後を任せるしかないだろう。


 チャンドラーはふと振り返って、先ほど通った高層マンションを見やる。黒々とした背の高い、見栄えの素っ気ない建物だった。そんな建物が左右にいくつも乱立している。そして、それらに無数についた窓から明るい光が漏れている。

 その中の誰がアンドロイドで、何人が蘇生体なのかは分からない。ただ彼らはそんなことを気にすることなく日常を送っていく、ちょうど先ほどの夫婦のように。

 そんな光景が、あんなが、一体いつまで続くのだろう。

「チャンドラー次官?」

 不思議に思った部下が尋ねてきた。彼もまた、真実を知らない。知らない方が幸せだろう。

「なんでもない。行こう」

 不幸にも生き残った側の技師であるチャンドラーには、結局のところ研究の進展を期待しながら目先の仕事をこなすことしかできないのだ。割り切っている彼は、しかし心の奥底で不愉快な泥を溜めながら、薄黒い道を部下とともに歩いていった。



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《補足》

 私は『3001年終局への旅』を読んでいないので、解釈違いがありましたら申し訳ありません。

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