第5話:約束という光

 春の夕暮れ、空気にほんのり夏の匂いが混じりはじめる。

 グラウンドの向こうでは、野球部が練習を終えて笑い声をあげていた。

 その喧騒から少し離れた、校舎裏の静かな場所に、蓮と葵は並んで座っていた。


 二人の間に流れる沈黙は、もう怖くなかった。

 言葉を選んで迷う必要もない。ただ、そこにいることが、十分だった。


 蓮はポケットの中で、ぎゅっと手を握りしめる。

 指先が少し震える。でも、今の自分は、逃げない。


「なあ、葵」


 蓮が不意に切り出す。葵は顔を上げて、すこし驚いたように目を丸くした。


「来年も──」

 一度、言葉を飲み込む。深く息を吸って、もう一度。


「来年も、一緒に、夏を過ごそう」


 葵は、きょとんとしたまま蓮を見つめた。

 一瞬、理解が追いつかないような顔。けれど、すぐにふわりと微笑んだ。


「……それって、つまり?」


 葵の問いかけに、蓮は真っ直ぐ頷く。

 言葉にすれば簡単だけど、その一歩には、たくさんの勇気が詰まっていた。


「約束だよ」

 そう言いながら、蓮はそっと、小指を差し出した。


 葵は一瞬、目を見開く。

 戸惑うように、でも嬉しそうに、小指を伸ばしてきた。

 小さな指と指が絡まる。

 ただそれだけなのに、胸の奥に熱いものがじんわりと広がっていった。


「……子どもみたいだね」

 葵が照れたように笑う。

 でもその笑顔には、もう不安も、遠慮も、隠されていなかった。


「うん、でも……」

 蓮も、恥ずかしさを堪えながら言う。


「これくらい、必死になりたかったんだ」


 沈黙の向こうで、夕陽がゆっくりと沈んでいく。

 淡いオレンジ色が、二人の影を、そっと重ねた。


「蓮」


 葵が小さく呼んだ。

 名前を呼ばれるだけで、こんなに胸がぎゅっとなるなんて。

 かつての自分なら、信じられなかっただろう。


「うん」


「ありがとね」


 葵は、ほとんど呟くように言った。


「……あたし、すごく怖かったんだ」


 かすかな震えを帯びた声。

 でも、その震えの向こうに、確かに強さがあった。


「また、いなくなっちゃうんじゃないかって思ってた」

「また、ひとりになるんじゃないかって、思ってた」


 蓮はぎゅっと、絡めた小指に力を込めた。


「もう離さないよ」

「葵がどこにいても、俺は、ちゃんと“自分のために”会いに行く」


 葵は目を伏せて、ぽつりと言った。


「強くなりたいな、あたしも」


「なってるよ」

 蓮はすぐに答えた。

「葵は、ずっと強い。優しくて、ちゃんと、自分を信じようとしてる」


 葵は、静かに笑った。

 その笑顔を見た瞬間、蓮は心の奥底から思った。


 ──ああ、やっと、言えたんだ。


 誰かのためじゃない。

 見返りなんか求めない。

 ただ、自分がそうしたいから、そうした。


 それがこんなにも温かいものだったなんて。



 ふと、葵が言った。


「蓮も、変わったよね」


「そうかな?」


「うん。前よりずっと、まっすぐだよ」


「……葵のおかげだよ」


 それだけを、素直に伝える。

 照れ隠しも、強がりもいらなかった。


 葵は、少し泣きそうな顔で笑った。


「また、一緒に笑おうね」


「うん。絶対」


 指切りなんて、子どもの約束みたいだけど。

 だけど、今のふたりには、何よりも大切な誓いだった。


 遠くに、校舎のチャイムが鳴る音が聞こえた。

 薄暮のなか、そっと小指を離しながら、ふたりは並んで立ち上がった。


 並んだ影は、細くて、頼りない。

 けれど、しっかりと未来に向かって、伸びていた。


 ──


「たとえ不安があっても、迷いがあっても、

 それでも自分の足で選んだ光だけが、本当の  希望になるんだ」


 蓮はそう思いながら、隣にいる葵を見た。

 葵もまた、真っ直ぐに前を見ていた。


 ふたりの未来は、まだ遠くて、まだ小さな光だけど。

 確かにそこに、灯っていた。

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