第2話「なにも言えなかった朝」
冬の朝は、すべての音を遠くに感じさせる。教室に差し込む白い光も、どこか輪郭がぼやけていて。
転校の噂は昨日から広がっていた。けれど、誰もはっきりとは信じていなかった。
葵が教室の扉を開けた瞬間、その「噂」が現実に変わった。
「おはよ。…ちょっと、今日で最後っぽい」
あっけらかんとした声だった。でも、その明るさが逆に痛かった。
蓮は、葵の方を見られなかった。まるで自分の目が、彼女の何かを壊してしまいそうで。
「そっちは任せたよ、文化祭の写真整理。…ちゃんとやってね、蓮」
冗談めかして笑う葵の声は、いつもより少しだけ乾いていた。
蓮は小さくうなずいた。それだけしかできなかった。
教室の空気は妙に静かだった。誰もが、何かを言いそびれているようだった。
蓮もまた、その中にいた。
黒板の時間割を見つめながら、心の中で何度も言葉を探した。
「行かないで」なんて、わがまますぎると思った。
「ありがとう」なんて、まだ終わっていない気がして言えなかった。
だから何も言えなかった。何も。
終業のチャイムが鳴ったとき、葵は椅子から立ち上がり、机を拭き、荷物をまとめ、
それから一度だけ、教室を見渡して、ふっと笑った。
「じゃあね」
それが、最後だった。
駅までの道を、蓮は走っていた。
自分の鼓動が耳の奥でうるさいほど響いていた。
彼女の姿がホームに見えた瞬間、心がきゅっと縮んだ。
それでも、声が出なかった。
葵は電車に乗る前、こちらに気づき、小さく手を振った。
蓮は手を振り返すこともできず、ただ立ち尽くしていた。
葵が一歩だけ近づいた。ホームと線路の境界に立ち、目を見つめる。
「がんばってね」
蓮が絞り出したのは、それだけだった。
あまりに他人行儀で、あまりに綺麗すぎて、
今この瞬間を見送るのにふさわしくない言葉だった。
「ねぇ、蓮ってさ、最後まで“自分の気持ち”は出さないんだね」
葵の目は、怒っても、悲しんでもいなかった。ただ、寂しそうだった。
それが一番、痛かった。
電車の扉が閉まり、動き出す。
蓮はその場から一歩も動けず、
ただ、ゆっくりと口元がかすかに歪むのを感じていた。
その表情が、泣きたかったのか、笑いたかったのか――自分でも、わからなかった。
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