第3話:葵の過去

 教室の空気が少しざわついたのは、たわいない会話の延長だった。


「てかさ、あの子また一人でいるよね」


 誰が言ったのか、蓮にはわからなかった。ただ、その一言が葵の背中を強く弾いたのだけは確かだった。葵はパタンと教科書を閉じ、誰にも目を合わせず立ち上がると、教室を出ていった。


「おい……!」


 蓮も無意識のまま立ち上がっていた。陽菜が心配そうにこちらを見る。その視線を背に、蓮は葵の後を追った。


 中庭を横切り、人気のない旧校舎の裏。午後の光が斜めに差し込むその場所に、葵はいた。腰かけたコンクリートの段差に背を丸めて、黙って膝を抱えている。


 蓮は静かに近づいた。


「……ごめん。急に出ていって」


「ううん。大丈夫。でも……ここが、一番落ち着くんだ。誰も、気を使って笑わない場所だから」


 葵は顔を上げないまま、ぽつりとつぶやいた。その声音はいつになくか細く、蓮の胸に鋭く刺さる。


「前の学校でね、あたし、結構浮いてたの」


 葵がふいに話し始める。蓮は黙って、その言葉に耳を澄ませた。


「空気読めないって、よく言われてた。場違いな発言したり、意見をはっきり言ったりするのが多かったから。それで、だんだん話しかけられなくなってさ。気づいたら、友達って呼べる子もいなくなってた」


 風が通り過ぎる。落ち葉が足元でからからと音を立てるなか、葵は少しだけ笑った。


「だからね、“誰にも期待しないで生きる”って決めたの。誰かにわかってもらおうとするから、傷つく。だったら最初から、ひとりでいた方がマシだって」


 蓮は言葉を失ったまま、ただ彼女の横顔を見つめた。葵の目には、泣いているわけではないのに、悲しみが滲んでいた。


「でも——蓮を見てると、すごく怒りたくなるの」


「……どうして?」


「だってさ、“誰かのために自分を殺す”って、あたしが必死で守ろうとした“自分らしくいること”を、簡単に否定されてる気がするから。『優しさ』っていう名前で、自分をすり減らしてるのを見ると、やりきれなくなる」


 蓮は一瞬だけ、呼吸が詰まったような感覚に陥った。


 怒ってるのに、涙がこぼれそうな声だった。誰にも期待しないと言いながら、どこかで本当は、誰かに理解されたいと願っているような——そんな矛盾に、彼は気づいてしまった。


「……君は、間違ってないよ」


 ようやく絞り出した声は、少しだけ震えていた。


「誰にも期待しないって決めたことも、怒ってることも、全部まっすぐで、本気で、だからこそ苦しい。でも、もし間違ってない人が、間違ってないことでひとりになっちゃう世界があるとしたら……それはきっと、世界の方が間違ってる」


 葵が目を見開く。蓮のその言葉は、まるで空気のようにすっと彼女の胸に入り込んできた。


「……蓮って、そういうこと言うの、ずるいよ」


 ようやく向き合った視線の中で、葵が笑った。寂しさも痛みも飲み込んだ、少し大人びた微笑だった。


「ずるい?」


「うん。ちゃんと見てくれるから。ちゃんと、あたしを“ひとりの人間”として、まっすぐに肯定してくれるから」


 その言葉に、蓮の胸がきゅっと鳴った。


 誰かの“ため”にではなく、その人“自身”を見ること。それが、こんなにも相手を救うのだと、彼は初めて知ったのだった。

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