第2話:陽菜の告白
秋の夕方は、色がやわらかい。
教室に差し込む橙色の光が、黒板や机を静かに染めていく。
蓮がプリントを片づけていると、陽菜がそっと近づいてきた。
廊下にはもう人気がない。最後まで残っていた実行委員の数人も、さっき帰ったばかりだ。
「蓮くん、少しだけ……話してもいいかな」
その声には、いつもよりわずかに震えが混じっていた。
蓮は頷く。陽菜の目は真っ直ぐだった。
何かを決めた人の目をしていた。
「文化祭、すごく楽しかった。
クラスも、前よりちょっと仲良くなれた気がするし」
陽菜は、笑顔で言った。けれどその瞳には、揺れがあった。
「でもね……楽しかったって思えるのは、たぶん、蓮くんがいてくれたからだよ」
蓮は、言葉を飲んだ。陽菜は、もう一歩、踏み出す。
「ずっと前から、見てたの。
クラスでみんなが困ってるとき、誰より先に動く蓮くん。
自分のこと、いつも後回しにして、誰かのためにって」
夕陽が、彼女の頬を赤く染める。
その表情は、まるで決意と不安が同居しているようだった。
「私は……そんな蓮くんのことが、好きだった」
教室が静まり返る。
時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。
蓮は、机の端に目を落とした。指先が少し震えている。
「陽菜さん……ありがとう。でも」
そこで言葉を切ったあと、慎重に呼吸を整える。
「僕は、たぶん……誰かを好きになる資格がないと思ってる」
「……どうして?」
陽菜の声が細くなる。
「僕はずっと、“誰かのため”に生きてきた。
それはきっと、僕の弱さからで。
本当の意味で、人を大事にするってことが……僕には、まだよくわからないんだ」
陽菜は、少し目を伏せた。そして、そっと笑った。
「それでもさ、誰かに必要とされたいって思ったら、許されるんじゃないかな」
蓮は目を見開いた。
「“好きになる資格がない”って、自分に言い聞かせるのは、誰のため?
“正しさ”とか“理屈”とか、そういうことじゃなくて——
蓮くん自身の気持ちは、どこにあるの?」
蓮は答えられなかった。
陽菜のまっすぐな言葉が、心の奥にゆっくりと沈んでいく。
「……私ね、ずっと“見てほしかった”んだ」
陽菜は、ぽつりと呟いた。
「私の頑張りを見てほしくて、でも見てもらえなくて。
でも、蓮くんがみんなを助ける姿は、ちゃんと届いてた。
私は、その背中に救われてたんだよ」
「……僕なんかが、救えてたのかな」
「“なんか”じゃないよ。
たった一人でも、“救われた”って思う人がいたら、それだけで意味があるんだよ」
静かに、教室のドアがきしんだ。
誰かが通りかかったのかもしれない。でも、2人はそのまま立ち尽くしていた。
陽菜は、もう一歩だけ近づく。
「“多数の幸福”を守るのは、すごいことだと思う。
でもね、たった一人の心が壊れそうなときは——
その一人のために、立ち止まってもいいんだよ」
その言葉は、蓮の胸に深くしみ込んだ。
「……ありがとう」
それしか、言えなかった。
けれどその一言には、確かに、感謝と少しの変化が込められていた。
陽菜は、静かに頷いた。
「これからも、好きでいるかはわからない。
でも、“伝えられてよかった”って思う」
そう言って、彼女は笑った。
悲しさと、あたたかさが混ざった、どこか大人びた笑顔だった。
蓮はその後も、しばらく教室に残っていた。
夕日が完全に沈み、空が群青に染まりかけた頃、ようやく動き出す。
——“僕には、誰かを好きになる資格がない”。
それは、ただの思い込みだったのかもしれない。
自分をひとりの人間として、他人が見てくれること。
それが、こんなにも重くて、あたたかいものだとは思わなかった。
> 「正しさでは測れない価値が、誰かの目に映っていた。
> 僕はきっと、まだ“ひとりの人間”として、ここにいていいんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます