第2章:揺らぎの芽生え
第1話:正しさに疲れる日
「文化祭の準備、そろそろ始めましょうか」
朝のHRでそう言ったのは蓮だった。委員長として、当然のように立ち上がる。黒板にチョークで大きく「文化祭 会議」と書き、あらかじめ配っておいたアンケートの集計用紙を手に持つ。
「演劇が多かったので、第一候補は演劇になりそうです」
蓮が発表すると、教室に曖昧なざわめきが広がった。肯定でも否定でもない、ふわりとした空気。
「まぁ、無難じゃね?」
「大道具とかはちょっとめんどいけど…」
「去年もそうだったし、いいんじゃない?」
誰も強く反対はしない。でも、どこか盛り上がりきらない。蓮はそれに気づきながらも、苦笑を浮かべて言った。
「やりたいことがある人は、補足案として書いてくれても大丈夫です。できるだけ意見を取り入れていきたいので」
その一言に、何人かが頷いた。だが葵だけは、窓の外をぼんやりと見つめたままだった。
***
放課後の話し合いでも、蓮は皆の意見を丁寧に拾っていった。配役、衣装、小道具。すべてを平等に、誰も損しないように。教科書通りの進め方だった。
それなのに、空気はどこか冷たい。誰かが「じゃあ、これでいいんじゃない?」と言えば、他の誰かも「うん、それで」と続く。蓮はその調和を守るように、笑顔でうなずく。
「じゃあ、今日はここまでにしようか」
蓮が声をかけたとき、葵が静かに立ち上がった。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「これって、本当に“やりたいこと”だったのかな」
蓮は言葉に詰まった。
「みんなの希望を聞いて、一番多かったのが演劇だから…」
「そうだね。でも、“無難だから”って理由で選ばれたものに、誰かが心から向き合えるのかな」
葵の瞳はまっすぐだった。冗談めかした言葉の裏に、静かな熱がある。
「委員長って、全員の声を平等に聞いて、全員が“まあいいか”って思えるものを選ぶのが仕事?それとも、誰かが“これをやりたい”って思えるものを見つけること?」
蓮は、返せなかった。
「私はね、みんなの顔見てて思ったよ。“これがベストじゃないけど、別に揉めるほどでもないからいいか”って顔してた」
その一言が、蓮の胸を刺した。
「……僕は、全員が納得できるものをと思って…」
「納得って、本当は“我慢”と紙一重だよ」
葵は笑わなかった。ふざけた調子もなく、真剣なまま、蓮を見つめていた。
「あなた、自分が何をしたいかなんて、もう考えてないでしょ?」
——図星だった。
自分の気持ちを後回しにするのは癖になっていた。誰かが傷つかないように。誰かが争わないように。そのために、蓮は“正しさ”を選び続けてきた。
でも、葵の言葉が、初めてその正しさを揺らがせた。
***
夜、自室の机に広げた文化祭スケジュール表を見つめながら、蓮は思う。
この進行スピードなら、締切には間に合う。作業も均等に割り振った。誰にも負担がかからないように、配慮もした。
——なのに、心のどこかがざわついている。
正しいはずなのに、どうしてこんなに虚しいんだろう。
ふと、昼間の葵の言葉が蘇る。
「納得って、本当は我慢と紙一重だよ」
誰のために選んだ正しさだったんだろう。
静かな部屋の中で、蓮は気づく。自分自身の“やりたい”を、いつの間にか失っていたことに。
そして、それを指摘されたとき、少しだけ、心が痛かった。
それはもしかしたら——
少しだけ、何かを取り戻したいと思った証だったのかもしれない。
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